零式艦上戦闘機

三菱 A6M 零式艦上戦闘機

ソロモン諸島上空を飛行する西澤飛曹長搭乗の零戦二二型 (A6M3)

ソロモン諸島上空を飛行する西澤飛曹長搭乗の零戦二二型 (A6M3)

零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は、第二次世界大戦期における日本海軍(以下、海軍と表記する)の艦上戦闘機。略称、零戦(ぜろせん、れいせん)(以下、零戦と表記)。試作名称は十二試艦上戦闘機。連合軍側のコードネームは、「ZEKE(ジーク)」であるが、 支那事変太平洋戦争勃発前の日中戦争)から太平洋戦争初期にかけ、2,200 kmの長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた運動性能で、米英の戦闘機に対し優勢だったことにより、敵パイロットから「ゼロファイター(Zero Fighter)」や「ゼロゼロ(Zero Zero)」と主に呼ばれた。大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立やF4UコルセアF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となるが、後継機の開発の遅れで、終戦まで日本海軍航空隊の主力だった。また、用途も拡大し、戦闘爆撃機特攻機としても使われた。

開発元は三菱重工業(以下「三菱」)。三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産、総生産数の半数以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の1万機以上[1]

各型の零戦の詳細は、「零式艦上戦闘機の派生型」を参照

特徴

名称

当時の日本の軍用機は、採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定で、零戦の「零式」との名称は、制式採用された1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、その下2桁が「00」であるためである[2][注釈 1]

「零戦」と略され「れいせん」「ぜろせん」と呼ばれる。「戦時中、英語は敵性語として使用を制限されていたから、『零戦』を『ぜろせん』と読むのは誤り」「“ゼロファイター”の和訳が戦後一般化した」と言われることがあるが、戦時中の1944年(昭和19年)11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際には「荒鷲[注釈 2] などからは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されているため、どちらも間違いではない。

当初、発動機の換装は一号、二号、機体の改修は一型、二型と表されていた(○○式○号艦上戦闘機○型)が、1942年夏に連続した二桁の数字(最初の桁が機体の改修回数、次の桁が発動機の換装回数を示す)で示すように変更されたため、既存の一号一型/一号二型は一一型/二一型と改称、二号零戦/二号零戦改と仮称されていた新型零戦は三二型/二二型と命名された。後に武装の変更を示す甲乙丙を付与する規定を追加。

連合軍が零戦に付けたコードネームZeke(ジーク)だが、将兵は直訳調の「Zero Fighter(ゼロファイター)」やZero(ゼロ)と呼んだ。ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、Hamp(当初はHap)というコードネームがつけられた。

構造

零戦は、速力、上昇力、航続力を満たすため、特に軽量化に強くこだわり、[3] 逆に材質に強度を与えていた[4]ボルトねじなどに至るまで徹底し軽量化したため、初期の飛行試験では、設計上の安全率に想定されていない瑕疵が、機体の破壊に直結している。1940年(昭和15年)3月に、十二試艦戦二号機が、昇降舵マスバランスの疲労脱落によるフラッタにより空中分解し墜落、テストパイロット奥山益美が殉職、さらに1941年(昭和16年)4月には、二一型百四十号機と百三十五号機が、バランスタブ追加の改修をした補助翼と主翼ねじれによる複合フラッタにより急降下中空中分解、下川万兵衛大尉が殉職する事故が発生、開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚などの大掛かりな改修が行われている。設計主務者の堀越技師は、設計上高い急降下性能があるはずの零戦にこのような事態が発生した原因として、設計の根拠となる理論の進歩が実機の進歩に追い付いていなかったと回想している[5]。 また、軽量化のため機体骨格に多くの肉抜き穴を開けたり、空気抵抗を減らすため製造工程が複雑な沈頭鋲を機体全面に使用するなど、大量生産には向かない設計となっている。これは当初、少数精鋭の艦戦ということで工数の多さは許容されたためである。設計段階から生産効率を考慮したP-51と比較すると零戦の生産工数は3倍程度となっている。

零戦二一型の鹵獲機体の調査に携わったチャンスヴォートのエンジニアから、V-143戦闘機と引き込み脚やカウリング・排気管回りなどが類似していると指摘されたため、零戦そのものがV143のコピー戦闘機であるという認識が大戦中のみならず現在でも一部海外で存在するが、この説は開発開始時期の相違により否定されている。外見や寸法が似ているグロスターF.5/34(降着装置が半引き込み式で、尾部のとんがりが少々長いが、外形、寸法、各種数値は酷似)をコピー元とする説もあるが、零戦の寸法は、翼面荷重や馬力荷重を九六式艦戦と同程度に収めるように決められた数値である。またグロスターF.5/34が前近代的な鋼管骨組み構造であるのに対し、零戦は九六式艦戦と同じ応力外皮(モノコック)構造であり、コピー説は否定されている。似ているのは、コピー云々ではなく、機体の形状が冒険を避けオーソドックスにまとめられた結果である。

零戦には九六式艦上戦闘機同様、全面的な沈頭鋲の採用、徹底的な軽量化と空気力学的洗練、主翼翼端の捻り下げ、スプリット式フラップ、落下式増槽などがある。主翼と前部胴体の一体化構造は、陸軍の九七式戦闘機に採用された技術で、フレーム重量を軽減するが、翼の損傷時の修理に手間取るという欠点がある。

引き込み式主脚

飛行時車輪を機体内に格納し空気抵抗を削減、日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機についで2番目に採用、油圧作動、形式は翼から胴体側に折りたたまれる構造であり、翼の構造がやや複雑になる反面、強度や安定性に優れ安全性は高い。また、零戦では、尾輪も引き込み式となっている。

定速回転プロペラ

恒速回転プロペラとも呼ばれ、回転数を一定に保つため、プロペラピッチ変更[注釈 3] を自動的に行うもので、操縦席にあるプロペラピッチ変更レバーにより任意でのピッチ変更も可能である[注釈 4]。日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機についで3番目に装備された。零戦に使用されたのは当時多くの機体に使われていたハミルトン・スタンダード製の油圧式可変プロペラを住友金属工業がライセンス生産したものである。

超々ジュラルミン

住友金属開発の新合金超々ジュラルミンを主翼主桁に使用、後に米国でも同様の合金が実用化されている。日本・英語圏ともESDと呼ばれるが、日本では「超々ジュラルミン」の英訳である「Extra Super Duralumin」の略であるのに対し、英語圏では「E合金」と「Sander合金」をベースに作られた「Duralumin」という意味の略号である。ちなみに現在のJIS規格では、7000番台のアルミ合金に相当する。

剛性低下式操縦索

人力の操舵では操縦装置を操作した分だけ舵面が傾く。高速飛行時と低速時では同一の舵角でも舵の利きが全然異なるため、操縦者は速度に合わせて操作量を変更しなければならない。そこで、零戦では操縦索を伸び易いものにし、高速飛行時に操縦桿を大きく動かしても、舵面が受ける風の抵抗が大きいため操縦索が引っ張られて伸び、結果的に適正な舵角を自動的に取れるようにしている。全ての操縦索に採用されたと誤解されがちであるが、実際は昇降舵につながる操縦索のみである。

光像式照準器(九八式射爆照準器、俗称OPL)

海軍では1932年(昭和7年)にOPL製照準器を試験的に輸入して以来、慣例的にOPLと呼称していた光像式照準器を日本の戦闘機で初採用した。従来の照準器は「眼鏡式」と呼ばれ、照準用望遠鏡が前面キャノピーから突き出ていたため空気抵抗が増し、搭乗員はスコープを覗き込むため窮屈な姿勢となり視界も制限された。これに対し光像式照準器は、ハーフミラーに遠方に焦点を合わせた十字を投影するもので、キャノピー内に配置されるので、空気抵抗を低減できる上に照準操作もしやすく、また望遠鏡式とは異なって照準器を覗き込まないので、視界が狭くなることもない。九八式照準器は輸入したハインケルHe112に装備されていたレヴィ2b光像式照準器をコピーしたものであるが、大戦後半には、輸入したユンカースJu88に装備されていたレヴィ12C光像式照準器をコピーした四式射爆照準器に更新されている。

発動機
翔鶴から発進準備中の零戦二一型 (A6M2b)
練習航空隊の零戦三二型 (A6M3)
出撃準備中の零戦五二型丙 (A6M5c)

零戦の性能向上が不十分だった原因として、発動機換装による馬力向上の失敗がある。雷電・紫電の穴埋めとして零戦の武装・防弾の強化及び高速化を図った五三型 (A6M6) の開発を開始、水メタノール噴射装置(混合液を気化器周辺へ噴射し冷却を行い酸素濃度を高める仕組み)追加によって出力向上を図った栄三一型(離昇1,300馬力を予定)の搭載が予定されており、武装・防弾を強化しても最高速度を580 km/h台までの向上が可能と試算されていた。栄三一型の開発は比較的順調に進み、五三型試作一号機を用いて実用審査が行われていた。しかし、1944年(昭和19年)秋頃に多発した零戦のプロペラ飛散事故の原因が栄二一型の減速遊星歯車の強度不足であることが判明し、対策を必要とする零戦(五二型系列約300機)の改修に海軍の栄三一型審査担当者が追われることになったため、栄三一型の審査は一時中断された。そしてこの時に始まったフィリピン戦に対応するため、審査未了で生産できない栄三一型の代わり栄二一型が零戦に装備されることになり、審査と平行して生産されていた栄三一型用の調整が困難かつ実効がほとんど認められないどころか性能低下の一因ともなる水メタノール噴射装置は倉庫で埃を被ることになった。この結果、大量生産された零戦五二型丙 (A6M5c) は栄二一型装備のまま武装・防弾のみを強化したため正規全備重量が3,000kg近く増加、速度・上昇力が大きく低下。この混乱が治まった後に栄三一型の審査は再開されたものの、審査終了が終戦間際であったため、栄三一型装備零戦の多数配備には至らなかった。

零戦に栄より大馬力を期待できる金星を装備するという案は、十二試艦戦の装備発動機選定以降も繰り返し浮かび上がっている。まず、零戦二一型の性能向上型であるA6M3の装備発動機を検討する際に栄二一型と共に金星五〇型が候補として挙がったが、最終的には栄二一型を採用、次に1943年(昭和18年)秋に中島飛行機での増産に伴って栄の減産が計画されたため、零戦にも金星六〇型への発動機換装が検討されたが、航続距離の低下とより高速重武装の雷電二一型 (J2M3) の生産開始が近く、中止になっている。1945年(昭和20年)、中島飛行機において誉のさらなる増産に伴い、中島での栄の生産中止のため、再び零戦の金星六二型への発動機換装が計画された。零戦五四型 (A6M8) 発動機換装型は、艦上爆撃機彗星三三型のプロペラとプロペラスピナーを流用した間に合わせ的な機体だが、発動機換装により正規全備で3,100kgを超える機体に零戦各型で最速となる572.3 km/hの速度と五二型甲 (A6M5a) 並みの上昇力となったが航続距離は大幅低下、局地戦闘機的な性格が強い機体となる。性能向上型としては成功したように思える五四型だが、試作一号機が1945年(昭和20年)4月に完成する数ヶ月前に、金星を生産する三菱の発動機工場がB-29の爆撃によって壊滅、結局試作機2機が完成したに過ぎず、零戦は最後まで栄を搭載せざるを得なかった。

また開戦前の海軍は栄二一型に換装した性能向上型の零戦、後の零戦三二型に期待しており、三菱の他にライセンス生産を行う中島飛行機でも三二型の大量生産計画が立てられていた。しかし、いわゆる「二号零戦問題」と栄二一型の不調もあって、中島飛行機での零戦三二型のライセンス生産は中止、1944年(昭和19年)前半まで零戦二一型の生産を続けている[注釈 5]

設計者の堀越は昭和19年9月の社内飛行試験報告において軍へ、工作精度の低下、劣悪な燃料から生産機は設計値から25%の性能低下、とした試算、実験報告をしている。米軍が安定してオクタン価100以上の航空燃料だったのに比し、日本軍は現代のレギュラーガソリン以下のオクタン値の燃料しかなく、末期には松根油なる代替燃料にすら困窮しており不調や性能低下の原因となった。

機銃

零戦初期型は、20mm機銃2挺(翼内)と7.7mm機銃2挺(機首)搭載。

九七式七粍七固定機銃

7.7mm機銃は当時のイギリス軍の歩兵銃、また日本海軍でも国産化していた留式七粍七旋回機銃と同じ7.7x56R弾(.303ブリティッシュ弾)使用で、これは輸入した複葉機の時代からのもので、この歩兵用の重機関銃を航空機用に改良したヴィッカースE型同調機銃を、毘式七粍七固定機銃(後に九七式固定機銃)として国産化したものであった。

また、爆撃機など双発以上の大型機を一撃で撃墜するため、当時としては強力な20mm機銃搭載が求められていた。

九九式一号二〇粍機銃(上)、九九式二号二〇粍機銃(下)

零戦搭載の20mm機銃はエリコンFFをライセンス生産した九九式一号銃、FFLをライセンス生産した九九式二号銃及び両者の改良型で、初速は一号銃 (FF) が600m/s、二号銃 (FFL) が750m/s、 携行弾数は60発ドラム給弾(九九式一号一型・一一型 - 三二型搭載)/100発大型ドラム弾倉(九九式一号三型または九九式二号三型・二一型 - 五二型搭載)/125発ベルト給弾(九九式二号四型・五二型甲以降搭載)となっていた。

防御力が高く7.7mmでは効果の薄いF4Fにも有効な20mm機銃の威力は多くの搭乗員が認めている。しかし反面60発しかない携行弾数(初期型)のため二斉射で全弾消費するパイロットもおり、多数のF4Fを相手にする際は不足しがちであった[6]。他にも7.7mmとの弾道の違い、旋回による発射G制限などが欠点として指摘されている。これに対応して携行弾数を増加させる改修が施されている。大戦中盤からは一号銃から銃身を長くして破壊力を上げた二号銃が搭載されるようになった。

7.7mm機銃と20mm機銃(1号銃)の弾道

九九式一号銃の初速では、弾丸の信管の不具合もあってB-17フライングフォートレスの防弾板を至近距離でなければ貫通できないことを海軍鹵獲の実物で確認、高初速の二号銃の採用で弾道、貫通力改善、先行し信管の改良も実施。

携行弾数は、初期の60発ドラム弾倉が、改良され最終的にベルト給弾化、125発に増加。エリコンFFシリーズは弾倉が機銃構造の一部のため、ベルト給弾化は困難で、本家スイスのみならず技術先進国のドイツでも実施されておらず、日本の九九式二号四型が唯一の事例であった。

九九式20mm機銃は「照準が難しく、修正しているうちに弾がなくなる」ため、戦闘機との格闘戦においては使い難いという欠点があった。特に一号銃に顕著だったが、照準さえ良ければ一撃で撃墜可能な威力を活かして開戦直後から、重厚な防弾装甲を施されたB-17フライングフォートレスやF4Fをも撃墜し、米軍に脅威を与えた。それでも用兵側にとっては不満が残り、ミッドウェー海戦で沈んだ空母「加賀」の直掩隊は、さらなる威力増大を求めている[7]

大和ミュージアムに展示される三式13.2mm機銃

また、大戦後期にアメリカ軍が12.7mm機関銃6 - 8門を装備したF6FP-51を投入してくると、機首の九七式7.7mm機銃二挺に替えて、三式13.2mm機銃を1 - 3挺(機首1、翼内2)搭載した型も登場した。

防弾

防弾装備の追加は、防弾タンクや自動消火装置の実用化が遅れたことや、開戦から一年も経たずにガダルカナル島で始まった連合国軍の反撃に対応するため、改修による生産数や飛行性能の低下が許容できず先送りされた。ただし1943年(昭和18年)末生産開始の五二型後期生産型から翼内タンクに炭酸ガス噴射式自動消火装置を、翌1944年(昭和19年)生産開始の五二型乙から操縦席に50mm防弾ガラスを付加、更に五二型丙からは座席後方に8mm防弾鋼板を追加、一部の機体は胴体タンクを自動防漏式としたが、十分ではなかった。

零戦は徹底した軽量化による機動性重視のため、防弾燃料タンク・防弾板・防弾ガラス・自動消火装置などが搭載されておらず、F4Fなどの米軍機に比べ、被弾に弱かった。後述のように初陣から防弾の不備は搭乗員から指摘されており、その後の改修でもしばらく防弾装備は後回しにされていたが、五二型以後は装備されるようになった。ただ、零戦は涙滴型の風防を備えており、特に後方視界が広く取れたため、同時期の他国戦闘機と比して後方警戒がしやすい利点があった。運動性能と視界の良さを生かして、攻撃を受ける前に避けるという方法で防御力の弱さをカバーするパイロットも多かったが、それには熟練の技術が必要で新人には難しく、気象条件や位置に左右されるなど限界もあった。防弾装備を増設すると重量が増加し、最大の利点である運動性が低下するトレードオフが生じていた。

設計者の堀越二郎は、開発時に防弾を施さなかったことは優先順位の問題であり、戦闘機の特性上仕方がないと語っている[8]。当時は大馬力エンジンがなく、急旋回等で敵弾を回避することもできる戦闘機では、防弾装備は他性能より優先度が低いため、海軍からも特に注文もなかったという。防弾装備が必要とされたのは搭乗員練度の低下によるもので、分不相応なものだったと回想している[9]。技術廠技術将校岸田純之助は、パイロットを守るために速力や上昇力、空戦性能を上げて攻撃を最大の防御にした、防弾タンクやガラスを装備すれば敵に攻撃を受けやすくなる[10]、日本の工業力から見ても零戦の設計が攻撃優先になったのは仕方ない選択、日本は国力でアメリカに劣っていたため、対等に戦うにはどこか犠牲にしなければならない、防御装備には資金がいるので限られた資源でどう配分するか常に考える必要があったと語っている[11]

通信装置

零戦には前作の九六式艦戦同様に無線電話・電信機が装備され、当初は九六式空一号無線電話機(対地通信距離100km、電信電話共用)を搭載していた。ミッドウェー海戦の戦訓は「直衛機は電話を工用し、制空隊・直衛隊の電波を同一となすの要あるものと認む」と述べている[12]。大戦後半はより高性能の 三式空一号無線電話機(対地通信距離185km、電信電話共用)に変更している。アメリカ軍は、アリューシャンで鹵獲した二一型に装備されていた九六式空一号無線電話機を軽量化のため最小限の装置のみを搭載していると評価し、マリアナで鹵獲した五二型に装備されていた三式空一号無線電話機を自軍無線機に匹敵する性能を持つと評価。但し、取付方法や防湿対策に問題があるとも評価していた。事実、信頼性が低く故障で手信号が多用されたため、軽量化(約40kg)のため無線機を下ろすベテランも多かった。

この他に艦上機型である二一型からは、単座機では困難な洋上航法を補助する装置として無線帰投方位測定器が新たに搭載されている。これはアメリカのフェアチャイルドが開発したものを輸入・国産化したもので、輸入品はアメリカでの呼称そのままにク式(クルシー式の略)無線帰投方位測定器と呼ばれ、後に国産化されたものは一式空三号無線帰投方位測定器と呼ばれた。

同時期の多くの単発戦闘機と同様、電探敵味方識別装置は装備されていない。

性能

格闘性能

高い運動性能を持ち、他国戦闘機よりも横、縦とも旋回性能がズームを除いて格段に優れる。20mm機銃2挺の強力武装。気化器が多重の弁(0Gバルブ/中島製)を持つために、マニュアル上背面飛行の制限がない[13]。これは戦闘機にとっては非常に重要で、急激な姿勢変化に対するエンジンの息継ぎを考慮しないで済むため、機体の空力特性=旋回性能限界としての操縦が可能である。ただし、持続的なマイナスG状態での飛行では米軍機同様のエンジンストールが発生することが米軍の鹵獲機試験で判明しており、大戦後期の攻略戦法に取り入れられている。初期の米国戦闘機に「ゼロとドッグファイトを行なうな」という指示があったのは、同じ姿勢変化を追随して行なうとエンジン不調につながるからでもあった。一方、低速域での操縦性を重視し巨大な補助翼を装備したため、低速域では良好な旋回性能の反面、高速飛行時には舵が重く機動性が悪かった。

零戦は操縦が極めて容易であり、運動性がよく、すわりもよかった。そのため、空戦に強く、射撃命中がよく、戦闘機搭乗員の養成、戦力向上が比較的短時間に行えた[14]

零戦の格闘性能は、後継機にも影響を与えた。烈風(当時は十七試艦戦)の研究会において、 花本清登少佐(横須賀航空隊戦闘機隊長)は実戦で零戦が敵を制しているのは速度だけではなく格闘性能が優れているためで、次期艦戦でも速度をある程度犠牲にしても格闘性能の高さに直結する翼面荷重を低くすべきと主張し、空技廠飛行実験部の小林淑人中佐もこれを支持している[15]

速力

軽量化のため、500 km/h (270kt) 超の最高速度。急降下に弱く、徹底した軽量化により機体強度の限界が低く、初期型の急降下制限速度は、F4Fワイルドキャットなどの米軍機よりも低い629.7 km/h (340kt) であった。試作二号機や二一型百四十号機と百三十五号機が急降下試験の際に空中分解事故を起しており、原因解析の結果を受けて、以降の量産機では、主翼桁のシャープコーナーの修正・昇降舵マスバランスの補強・主翼外板厚の増加などの対策が施され、急降下性能の改善が図られた[5]。五二型以降では更に外板厚増加などの補強が行われ、急降下制限速度は740.8 km/h (400kt) まで引き上げられている。

航続力

零戦は大戦初期において、長航続距離で遠隔地まで爆撃機を援護し同時侵攻できた数少ない単発単座戦闘機である。陸軍の一式戦闘機隼も長航続距離だが、実戦では零戦の方が長距離作戦に投入されることが多かった。もともと艦隊防空を主任務とする艦戦は、常に艦船上空に滞空させて対空監視(戦闘哨戒)を行う必要がある。零戦が開発された1936年(昭和11年)当時、レーダーは実用段階まで至っていない。艦戦が運用される航空母艦は、陸上基地とは異なり早期警戒のための対空見張り網を構築できないためである。このような運用を前提とする場合、滞空時間が長ければ長いほど、交代機が故障で上がれないなどの突発的な事態において防空網に穴が空きにくいという利点がある。後述の十二試艦上戦闘機計画要求書にあるように、航続力が距離ではなく滞空時間で指定されている事も、こうした運用に基づくものである。

また、長大な航続力は作戦の幅を広げ戦術面での優位をもたらす。実際、開戦時のフィリピン攻略戦などは、当時の常識からすると空母なしでは実施不可能な距離があったが、零戦は遠距離に配備された基地航空隊だけで作戦を完遂した。ただし自動操縦装置や充分な航法装置のない零戦で大航続力に頼った戦術は搭乗員に過度の負担と疲労を与えた。また洋上を長距離進出後に母艦へ帰還するには、搭乗員が高度な技量と経験を持つ必要があった。

航続力において二一型は傑出しているが、これは落下式増槽に加え、胴体内タンクに正規全備時の62Lの倍を超える135Lの燃料を搭載するという例外的な運用を行った場合のことである。これと同じ条件、即ち落下式増槽を含む全燃料タンクを満載にした状態での航続距離を比較すると、燃料タンクの小さい三二型や栄より燃費の悪い金星を搭載した五四型を除く零戦後期型(二二型や五二型各型)と二一型の間に大きな差はなく、三二型でも二一型の85%程度となる。また、二一型以前の零戦は機体内燃料タンクを満載にした状態では飛行制限があるが、三二型や二二型、五二型にはそういった制限はない。三二型は開戦からおよそ半年後に配備が開始されたが、この時期はガダルカナル戦の開始直前にあたり、二一型より航続距離の短い三二型はガダルカナル戦に投入できず、せっかくの新型機がラバウルで居残りになっていた。このため、この時期のラバウルの現地司令部は上層部に二一型の補充を要求している。また、これは海軍上層部でも問題となって、海軍側の三二型開発担当者が一時辞表を提出しただけには止まらず、零戦の生産計画が見直されるほどの事態となっている。

零戦はそれまでの単座戦闘機とくらべ長大な航続力のため、長距離飛行の技術が操縦員に求められた。単座戦闘機搭乗員にとって、誘導機なしの戦闘機のみの洋上航法は、ベテランでも習得困難な技術だった。しかし1940年(昭和15年)の龍驤戦闘機隊分隊長の菅波政治大尉、1941年(昭和16年)の瑞鶴戦闘機隊分隊長の佐藤正夫大尉らは、単座戦闘機の洋上航法の技量に優れ熱心だった[16]。当時の洋上航法は、操縦しながら航法計算盤を使って計算し、海面の波頭、波紋の様子を観察してビューフォート風力表によって『風向、風力』を測定して[注釈 6]、風で流された針路を『偏流修正』し、『実速』(実際の対地速度、当時の呼称)を計算し飛行距離、飛行時間を算出予測する航法だった。その航法精度は、洋上150海里を進出して変針し、そののち方向、時間を距離計算して帰投し、その地点からの矩形捜索によって晴天目視で母艦艦隊位置確認可能な誤差範囲(例えば20海里)におさめる程度の精度だった。単座戦闘は複座・多座の攻撃機爆撃機に比較し無線電信電話機能も弱く、ジャイロ航法支援機器もなかったが、実戦で母艦に単機帰投した例も多かった。

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