一式戦闘機

中島 キ43 一式戦闘機 「隼」

1943年夏、飛行第25戦隊第2中隊のエース大竹久四郎曹長の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号の下桁を垂直尾翼に描いている

1943年夏、 飛行第25戦隊第2中隊の エース 大竹久四郎 曹長の一式戦二型(キ43-II)。 部隊マークとして 白色で縁取られた 中隊色赤色帯と、機体番号の下桁を 垂直尾翼に描いている

一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしき-)は、 第二次世界大戦時の 大日本帝国陸軍戦闘機キ番号(試作名称)はキ43愛称 (はやぶさ)。呼称・略称は一式戦一戦ヨンサンなど。 連合軍のコードネームは Oscar(オスカー)。開発は 中島飛行機、製造は中島および 立川飛行機 [注 1]

四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、 太平洋戦争大東亜戦争)における事実上の主力機として使用された。総生産機数は5,700機以上で、旧 日本軍の戦闘機としては 海軍零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位 [注 2]

概要

開発・計画

1937年(昭和12年)12月に 制式採用された中島製の全金属製低翼単葉機 九七式戦闘機(キ27)は、 主脚に固定脚を採用した保守的な 格闘戦向けの戦闘機だった。登場当初の九七戦は速度・上昇力・旋回性に優れた優秀機であったが、当時の 欧州では引込脚の Bf 109ドイツ)と スピットファイアイギリス)が出現しており、設計面で将来性が乏しい九七戦自体に限界を感じていた陸軍は新型戦闘機の開発を模索するようになった [1]。そのため九七戦採用と同月である12月、 陸軍航空本部は中島に対し一社特命でキ43試作内示を行い [2]1939年(昭和14年)末の完成を目指して開発が始まった [3]。主な要求仕様は以下の通りとされている。

  • 最大速度 - 500km/h
  • 上昇力 - 高度5,000mまで5分以内
  • 行動半径 - 800km以上 [注 3]
  • 運動性 - 九七戦と同等以上
  • 武装 - 固定 機関銃2挺
  • 引込脚を採用

中島では設計主務者たる 小山悌課長を筆頭とする設計課が開発に取り組み、担任技師(設計主任)は機体班長たる 太田稔技師、構造設計担当 青木邦弘技師、翼担当 一丸哲雄技師、ほかに空力担当として 糸川英夫技師らが設計に協力し、 群馬県の太田製作所で開発が始まった。

『陸軍航空兵器研究方針』

なお、九七戦開発中に考案された航本の昭和12年度『陸軍航空兵器研究方針』において、単座戦闘機は「機関銃搭載型」と「 機関砲搭載型」の2種が定義されており、これに則って開発が始められた機体がキ43(前者)と キ44(後者)である(のちに 二式戦闘機「鍾馗」となるキ44は 1938年(昭和13年)に同じく中島に対して研究内示が行われた)。昭和13年度『陸軍航空兵器研究方針』ではそれらを発展させた区分として 「軽単座戦闘機」と「重単座戦闘機」が登場、「軽単座戦闘機(軽戦)」は格闘戦性能を重視し機関銃を装備、「重単座戦闘機(重戦)」は速度を重視し機関砲を装備するものと定義され、当時開発中であったキ43は「軽戦」に、キ44は「重戦」となっている。そのためキ43はキ44と比べて格闘戦を重視するものであった [4]。青木技師は陸軍の要求は「九七戦に対し運動性で勝ること」で「近接格闘性」という表現を排除していることに着目し、キ43は重戦指向であったと述べている [5]

さらに区分が明文化された昭和15年度『陸軍航空兵器研究方針』では、「重戦」は高速重武装かつ 航続距離や防弾装備にも優れ対戦闘機対爆撃機戦に用いる万能機たる本命機に昇華した一方で、「軽戦」は格闘戦を重視し主に対戦闘機戦に用いる性能装備面で妥協した補助戦闘機的ものとなっている。1941年12月には中島に対し「重戦」の発展型として キ84の内示が行われ、これはのちに 四式戦闘機「疾風」として制式採用、これは速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性・生産性に優れた万能機たる本命機となっている。続く昭和18年度『陸軍航空兵器研究方針』では「軽戦」と「重戦」の区分は廃止され、妥協の産物かつ既に時代遅れの存在である「軽戦」は「重戦」に併呑され「近距離戦闘機(近戦)」となっている(同年度方針では「近戦」のほかに「遠距離戦闘機(遠戦)」・「高高度戦闘機(高戦)」・「 夜間戦闘機(夜戦)」の区分が登場。

試作・審査

一式戦一型(キ43-I)

引込脚以外の機体基本構造は前作の九七戦を踏襲したことから開発は順調に進み(反対に日本機にとって革新的なキ44には新技術や新構想が盛り込まれた)、供試体である試作0号機を経て1938年12月に試作1号機(機体番号4301)が完成、同月12日に 利根川河畔中島社有の 尾島飛行場にて初飛行している(操縦は テスト・パイロット四宮清)。 エンジンは中島で開発された ハ25を、翼型はNN-2・翼端部はNN-21を採用(上反角6度・取付角2度・翼端部2度捩下)、また アルミニウム製燃料タンクが出来た時点で陸軍から防弾タンク(防漏タンク・防火タンク)化の指示がなされている( #防弾装備 [6]

試作1号機の胴体形状は増加試作機以降とは大きく異なり引込脚化された九七戦を引き伸ばした感じであり、風防は枠の無い曲面1枚物といった特徴がある(初飛行後に景色の歪みが問題とされ平面主用の3枚物に換装)。 1939年(昭和14年)1月、 立川陸軍飛行場に空輸されたキ43試作1号機は 陸軍航空技術研究所による審査に移行。同年2月に試作2号機、3月には試作3号機が完成し審査に合流している。

航技研や 明野陸軍飛行学校での審査の結果、キ43は九七戦に比べ 航続距離は長いものの旋回性に劣り最大速度の向上は30km/h程度ということが判明、さらに同年5月に勃発した ノモンハン事件(主に前期ノモンハン航空戦)で九七戦が旋回性能を武器に活躍したこともキ43採用に対して逆風となっていた [7]。同年11月、審査の結果を受け胴体以下各部を改め全体のスタイルがのちの制式機相当となった増加試作1号機(通算試作4号機)が完成したが、ノモンハン事件の戦訓として次期戦闘機には更なる高速化・武装強化・防弾装備が求められたこともあり、依然キ43の審査は長引いていた。

第三次審査計画を経て、軽戦派・重戦派の双方から中途半端とみなされたキ43試作機型をそのまま制式採用することは見送り、より強力なエンジン( ハ105)に換装して高速化を図った、キ43性能向上第二案の開発を進めることが決定された [8](第一案では固定脚化など徹底的な軽量化が行われたものの不採用)。速度と上昇力と航続距離の向上を重視する実用側の明飛校審査員間においてもこのエンジン換装案は支持され、直後の研究会においてキ43-II相当となる第二案の開発が確定した。このため、中島のキ43設計主務者小山技師もキ43再設計を開始している。

採用

一式戦一型(キ43-I)

キ43性能向上第二案の開発が続けられる間にも日本とイギリス・ アメリカの関係は悪化の一途を辿った。 1940年(昭和15年)夏、 参謀本部は南進計画に伴い 南方作戦緒戦で 上陸戦を行う船団を 南部仏印より掩護可能、また遠隔地まで 爆撃機護衛および 制空することが出来る航続距離の長い遠距離戦闘機(遠戦)を要求。仮想敵である イギリス軍新鋭戦闘機スピットファイアに対抗可能と考えられ、本来は陸軍主力戦闘機となるべきキ44(二式戦)の配備が間に合わないことと [注 4]陸軍飛行実験部実験隊(航技研審査部門の後身)のトップである 今川一策 大佐の進言もあり、一転してキ43試作機型に一定の改修を施した機体を制式採用することが決定。同年11月、主に以下を内容とする『キ43遠戦仕様書』が中島に示され、翌 1941年(昭和16年)3月に改修機が飛行実験部実験隊戦闘班に引き渡され再度試験が進められた。キ43性能向上第二案開発中であった当時、不採用であるキ43原型試作機型を急遽採用する行為に対して開発・審査側では反対や混乱が起きている。またキ43原型試作機型の採用が凍結され、中島による根本的な再設計が行われていたためキ43原型試作機型生産のための 治具は片付けられていた。なお陸軍航空はあくまでキ43は不満足な「原型試作機型」を採用することは本来はせず、「性能向上型」の開発・審査を再度行ったのちこれを採用する方向であったため、決して「キ43自体」の開発はお蔵入りになっていたわけではない。

かつて問題となっていた九七戦との運動性の比較については、戦闘フラップを使用しなくとも水平方向でなく上昇力と速度を生かした「垂直方向」の格闘戦に持ち込むことで、不利な低位戦であっても圧倒可能と判断されている。これはノモンハン事件における ソ連軍戦闘機 I-16の戦法を参考にしたものとされ [9]、飛行実験部テストパイロット 岩橋譲三 大尉の研究結果であった。

これらの結果を受けて1941年( 皇紀2601年)5月、キ43は陸軍軍需審議会幹事会において一式戦闘機として仮制式制定(制式採用)された。参謀本部の要請からキ43の採用を望んでいた航本総務部は、制式決定を待たず中島に対して400機生産の内示を出したとされており、一式戦量産1号機は同年4月に完成し6月時点で約40機がロールアウトしている [10]

実戦投入

南方作戦における「 軍神加藤少将」率いる第64戦隊と一式戦の活躍を描いた映画『加藤隼戦闘隊』の劇場ポスター( #愛称

制式採用の遅れから、太平洋戦争開戦時に一式戦が配備されていた実戦部隊は 飛行第59戦隊 飛行第64戦隊の僅か2個 飛行戦隊(第59戦隊2個中隊21機・第64戦隊3個中隊35機)であった。しかし、南方作戦においてこれらの一式戦は 空戦において喪失比で約4倍の数を、対戦闘機戦でも約3倍の数の連合軍機を確実撃墜、以下の記録は開戦日である南方作戦期間中たる1941年12月8日( マレー作戦開始)から1942年3月9日( 蘭印作戦終了)にかけて、当時の日本軍と連合軍が残した 戦闘記録比較調査により裏付の取れた一式戦の確実な戦果である [11]

  • 第59戦隊・第64戦隊の一式戦は連合軍機61機を確実撃墜
    • 両戦隊の一式戦の喪失損害は16機のみ
    • 撃墜連合軍機種内訳は戦闘機43機爆撃機等18機B-17E 1機を含む)。
      • 戦隊別撃墜戦果は第59戦隊が30機、第64戦隊が27機、両戦隊協同で4機。

さらに、「南方資源地帯の確保」という理由で始められた太平洋戦争において、その開戦理由かつ陸海軍の南方作戦における 戦略上の最重要攻略目標たる、 オランダ領東インド(蘭印、 インドネシアスマトラ島 パレンバン油田製油所飛行場陸軍落下傘部隊(挺進部隊)とともに制圧するなど( パレンバン空挺作戦 [注 5]、一式戦は陸軍が想定していた以上の華々しい戦果を挙げた( #南方作戦)。 1942年(昭和17年)後半以降は旧式化した九七戦に替わり改変が順次進められ、名実ともに陸軍航空部隊( 陸軍航空隊)の主力戦闘機となっている。一式戦は西は インドカルカッタ)、南は オーストラリアダーウィン)、東は ソロモン諸島、北は 千島列島とほぼ全ての戦域に投入された。

最初期の頃は配備数の少なさ故に一式戦の存在自体が日本軍内でもあまり知られておらず、さらに当時の陸軍機は胴体に 国籍標識ラウンデル)の 日章を記入することをやめていたため、海軍ばかりか身内の陸軍 操縦者からも敵新型戦闘機と誤認され、味方同士の真剣な空戦が起こるなどの珍事もあった。このため1942年中後半頃からは陸軍機も再度胴体に日章を描く様になっている。南方作戦が一通り終了した1942年3月に一式戦は「隼」と名付けられ大々的に発表され、以降陸海軍内でも知名度を上げていった( #愛称)。

一式戦二型(キ43-II)
一式戦三型(キ43-III)

一式戦は改良型が開発配備されるも大戦中期以降は旧式化し、戦況自体の悪化や連合軍が改良型機・新鋭機を大量投入し 戦術も変更するようになってからは苦戦を強いられるようになり( #飛行性能)、 1944年(昭和19年)後半以降は新鋭の四式戦が量産されこれに順次改変されているため配備数上では帝国陸軍唯一の主力戦闘機ではなくなった。カタログスペック上では大戦後期には完全に旧式化した一式戦だが1945年まで生産が続けられ、そのような機体を末期まで生産・運用したことを陸軍の不手際と評価する見方もあるが、重戦たる二式戦は運動性に優れた機体に慣れた操縦者(あるいは適応力のない操縦者)の中には使いにくいと評価する者がおりまた離着陸の難度が高く、エンジンの信頼性にも問題があり  三式戦闘機「飛燕」(キ61)は搭載 水冷エンジン ハ40の信頼性・生産性に問題があり全体的に稼働率が低くまた離昇出力も低く、1944年半ばより「大東亜決戦機」たる主力戦闘機として重点的に量産された四式戦はそのバランスの取れた高性能と実戦での活躍により アメリカ軍から「日本軍最優秀戦闘機」と評されるものの、 ハ45の不具合や高品質 潤滑油・高 オクタン価燃料・交換部品の不良不足によりこちらも信頼性に難があった。三式戦二型(キ61-II改)をベースに 空冷エンジン ハ112-IIに換装、速度性能と引換に「軽戦」などと評された運動性と比較的良好な稼働率を得た 五式戦闘機(キ100)の配備は1945年までずれ込んだ。そのような中で立川の生産ラインを活用し三型の量産が可能であった一式戦は全期間を通じて安定した性能を維持しており、信頼性も高く、新人操縦者にも扱い易く、その運動性の高さを武器に最後まで使用は継続された( #運動性能)。末期には 特別攻撃隊が運用する特攻機としても多用されている。

主にビルマ方面で第64戦隊とともに戦果を挙げた 飛行第50戦隊で活躍したエース、「白色電光戦闘穴吹」の通り名を持つ 穴吹智 曹長。1944年12月、 明野教導飛行師団(旧・明飛校)時代に陸軍曹長任官記念として撮影された1枚で、後方は同師団所属の一式戦二型(キ43-II)

一式戦は特筆に価する点として、大戦初期に限らず ビルマミャンマー)やその南東、 中国の戦線では大戦後期・末期である1944年後半以降においても連合軍戦闘機との空戦において「互角ないしそれ以上の勝利」を重ね( #ビルマ航空戦#中国航空戦)、また、スピットファイア・ P-38P-47P-51(P-51は アリソンエンジン搭載A型のみならず マーリンエンジン搭載B/C・D型をも含む)といった新鋭戦闘機との対戦でも「互角の結果」を残していることが挙げられる(中でもビルマ航空戦ではこれらの全新鋭機を一式戦は初交戦にて一方的に確実撃墜している( #ビルマ航空戦 後期))。これらの記録は日本軍と連合軍側の戦果・損失記録の比較により裏付も取れている「史実」である [12]。一例として、以下の記録は 1943年(昭和18年)7月2日から1944年7月30日にかけてビルマ方面の一式戦が記録した裏付の取れている確実な実戦果・実損害である [13]

  • 一式戦は連合軍機135機を確実撃墜
    • 一式戦の喪失損害は83機
    • 撃墜連合軍機種内訳は戦闘機70機爆撃機等32機輸送機等33機。
    • 連合軍戦闘機による一式戦の撃墜戦果は約61機。
      • 当時のビルマ航空戦全体で日本軍戦闘機は計142機を撃墜、連合軍戦闘機は計127機を撃墜。

同様に、以下は大戦末期の1944年8月18日から終戦間際の1945年8月13日にかけて、ビルマを初めとする 東南アジア方面(ビルマ・ フランス領インドシナ・マレー・ インドネシアタイ [注 6])を担当する 第3航空軍戦域における、一式戦の確実な実戦果・実損害である [14]

  • 一式戦は連合軍機63機を確実撃墜(一式戦が撃墜した可能性がある連合軍未帰還機9機を含むと連合軍機72機を確実撃墜
    • 一式戦の喪失損害は61機
    • 撃墜連合軍機種内訳は戦闘機14機(または18機ないし19機)・爆撃機等32機(または36機ないし37機)・輸送機等17機。
    • 連合軍戦闘機による一式戦の撃墜戦果は47機。残り14機は爆撃機の防御砲火によるもの。

末期においても圧倒的不利な状況にて一式戦が活躍していた事例として、以下の記録が存在する。 1945年(昭和20年)3月15日、 バンコク付近にて 飛行第30戦隊の一式戦2機が「第二次世界大戦最優秀機」と評される アメリカ陸軍航空軍のP-51D 4機(当初は8機)と交戦、この一式戦2機は空中退避中にP-51D 4機編隊の奇襲を受けた劣勢にも関わらずまずその一撃離脱攻撃を回避、続く別のP-51D 4機編隊の攻撃は得意とする超低空域機動によってこれも回避、一式戦は反撃し1機(第1戦闘飛行隊第4小隊モダイン大尉機)を確実撃墜 [15]

日本軍・連合軍の戦果および損害報告記録たる一次史料をもってこれら一式戦の戦績調査研究を行った 梅本弘は、自著においてビルマ航空戦における帝国陸軍航空部隊と一式戦の活躍を以下の如く述べている [16] [17]

(前略)空戦を児戯に類するほど単純に「航空機の損失と、撃墜戦果」という観点からのみ見れば、陸軍戦闘機隊は、質量ともに勝る英米の戦闘機隊に対して昭和20年の2月まで、ほぼ互角の勝負をしていた。

— 梅本弘 『ビルマ航空戦』 2002年11月 p.18

隼の損害、戦果ともに筆者の調査で確認できたものだけで、実際にはもっと多いはずだ。調査には限界があり、完全ではないが、昭和19年の後半から終戦まで、日本陸海軍の航空部隊が各地で目を覆いたくなるような惨敗を喫していた中で、主戦場から外れたビルマとさらに南東の辺境では、最後の最後まで、隼が信じられないような健闘をつづけていたのは確かである。

— 梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 2010年8月 p.124


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