ミット・ブレネンダー・ゾルゲ

パチェッリ枢機卿国務長官とピウス11世(1931年)。間の人物はグリエルモ・マルコーニ

ミット・ブレネンダー・ゾルゲドイツ語: Mit brennender Sorge)は、教皇ピウス11世によって発出された回勅1937年3月14日付で発出された[1]。通例回勅の原本はラテン語によって書かれているが、ドイツ語によって書かれている[2]。題名は「深き憂慮に満たされて[3]、「とてつもない懸念とともに[4]、「燃えるような思い[5]などと訳されている。ナチズムおよびナチス・ドイツ体制が、人種民族国家を神格化していると批判した[4]

背景

ライヒスコンコルダート交渉。左からルートヴィヒ・カースフランツ・フォン・パーペン副首相、 ジュゼッペ・ピアッツァード英語版大司教、パチェッリ 枢機卿国務長官英語版(ピウス12世)、アルフレド・オッタビアーニ司祭、 ルドルフ・ブットマンドイツ語版内務次官。

国家社会主義ドイツ労働者党人種主義を掲げ、人種としてのユダヤ人に対する迫害を公然と主張していた。一方でバチカンは、カトリック政党である中央党を支援しており、ドイツ国内において対立関係にあった[6]。しかし、共産主義を敵視する反共の観点では両者は共通していた[7]。またユダヤ教に反対するという立場では「反ユダヤ主義」としての共通点もあった[8]

1933年1月のナチ党の権力掌握後には、このような状況にも変化が生じた。3月23日にはヒトラー内閣によって提出されたに中央党が賛成票を入れ、3月28日にはドイツの司教団は「ナチズムに対する原則的批判は取り下げない」ものの、「拒否的姿勢をやわらげ、順応する」声明を発出し、次第に融和が図られるようになった[9]。7月20日にはバチカンとドイツ政府の間で、政教条約ライヒスコンコルダート)が締結され、ナチス政府がカトリック教会及び信徒への保護を行うことと、ドイツ国内のカトリックの聖職者と信徒がナチス政府への忠誠を誓うことが合意された[6]

しかしナチス政府によるカトリック教会への弾圧迫害はやまず、ライヒスコンコルダートが無視される事態がしばしば発生した[3]。カトリック学校に対する圧迫は強化され、カトリック系の青年運動は禁止された[4]。回勅「ミット・ブレネンダー・ゾルゲ」はこのような状況下で発出された、ナチス・ドイツ体制に対するバチカンからの批判の一つである[4]