ブラバント公国

ブラバント公の紋章

ブラバント公国オランダ語Hertogdom Brabantフランス語Duché de Brabantドイツ語Herzogtum Brabant)は、 低地諸国にあったかつての公爵領。現在の ベルギーフラームス=ブラバント州ブラバン・ワロン州アントウェルペン州および ブリュッセル首都圏地域オランダ北ブラバント州を含んでいた。

古代ローマ時代、ブラバントは ガリア・ベルギカ低地ゲルマニアの2つの属州に含まれ、 ゲルマン民族の大移動によって ローマ帝国の支配が終るまで、 ガリア人が居住していた。 ブリュッセルアントウェルペンルーヴェンブレダスヘルトーヘンボスリールティルブルフアイントホーフェンが重要な都市だった。この地方の名前は、最初、 スヘルデ川とダイル川の間に位置する カロリング朝 フランク王国の州パグス・ブラクバテンシス(pagus Bracbatensis)として記録された。Brachaとは『新しい』、bantとは『地方』を意味する。

歴史

ブラバント公国、 リエージュ司教領の歴史的地図。1477年

ブラバント伯爵領は ロタリンギア公国内の封建的領地として成立し、 959年のロタリンギアの分割後は下ロタリンギア内に含まれた。このようにして、この地は 中部フランク王国神聖ローマ帝国を構成する一部となった。 1085年から 1086年頃、より正確には先代ブラバント辺境伯、ロタリンギア・パラティン伯エルマン2世の死後、この領土はルーヴェン伯アンリ3世に割り当てられた。

ブラバント公国が公式に成立したのは 1183年から 1184年である。 ブラバント公の世襲称号は、 神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世がブラバント公 アンリ1世(下ロタリンギア公 ゴドフロワ3世・ド・ルーヴェンの息子)のために創設した。ブラバント公国として相当する国は全く小さく、ドンドル川とゼンヌ川の間の領土に限定されたけれども、ブリュッセルの西に位置し、その国名は13世紀以降公爵の管理下で国全体に適用されることになった。

1190年のゴドフロワ3世の死後、アンリ1世が下ロタリンギア公となった(事実上領土の権力なしの公爵位)。議定書によれば、彼の子孫全員はその結果ブラバント公及び下ロタリンギア公と呼ばれることになった。 アンリ3世の代で カスティーリャアルフォンソ10世により、下ロタリンギア公はロチエ公(儀礼的な称号だけで領土を伴わない)に改められた。

ブラバント公国の地図。領土は現在の北ブラバント州、アントウェルペン州、ブラバン・ワロン州、フラームス・ブラバント州、ブリュッセル首都圏地域とおよそ同じ大きさである。

1288年の ヴォーリンゲンの戦い後、ブラバント公はリンブルク公国と オートルムーズ(当時の リエージュ司教領の一部)を得た。 1354年、自由特権( Joyous Entry)がブラバント公 ジャン3世によってブラバント諸都市の市民に授けられた。 1430年、ロタリンギア、ブラバント、リンブルクの各公爵領は ブルゴーニュフィリップ3世(善良公)に継承された。 1477年、これらの称号はブルゴーニュ女公 マリー・ド・ブルゴーニュハプスブルク家マクシミリアンと結婚したことから、その長男 フィリップ美公以降ハプスブルク家の世襲となった。ブラバントのその後の歴史は、低地諸国または ネーデルラント17州の歴史の一部となる。

八十年戦争で、北部州(現在の北ブラバント州)はオランダ軍管理下に入った。 1648年ヴェストファーレン条約後、 ネーデルラント連邦共和国独立が批准され、北ブラバントは公式に連邦政府が治める領土として譲渡された。

南部は 南ネーデルラントとして スペイン・ハプスブルク家支配下に残った。同家の断絶後、 スペイン継承戦争を経て 1714年に支配権が オーストリア・ハプスブルク家へ移った。 1795年に南部ネーデルラントが フランス革命軍に占領されると、ブラバント公国は消滅した。かつての領土は、ドゥー=ネト(Deux-Nèthes、 フランス第一帝政地方行政区画の一つ。現在の アントウェルペン州)、ディル(Dyle、フランス第一帝政期の地方行政区画。後の ブラバント州)に再編された。

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