フン族

フン族を描いた19世紀の歴史画(ヨーハン・ネーポムク・ガイガー画)
フン帝国は中央アジアステップから現代のドイツ黒海からバルト海にまで広がっていた

フン族(フンぞく、Hun)は北アジアの遊牧騎馬民族中央アジアステップ地帯が出拠と考えられる[1]が、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴」説などがあるものの、いまだ定説となっていない。言語学的にはテュルク語族に属すると考えられている[注釈 1]

4世紀中頃から西に移動を始め、これが当時の東ゴート族、西ゴート族を圧迫して、ゲルマン民族大移動を誘発、さらには西ローマ帝国崩壊の遠因ともなった[2]。5世紀中頃のアッティラの時代に統一帝国を築いて最盛期を迎えたが、453年に王の死去、翌年には帝国は瓦解、急速に衰退した。

同じ名称の後裔または後継者がおおよそ4世紀から6世紀東ヨーロッパ中央アジアの一部に住んでいたと記録されている。フン族の末裔が8世紀前半にカフカスで記録されている。

歴史上の記録

フン族の西方への移動の推定図

アッティラ以前

139年ローマの地理学者プトレマイオスはクーノイ族(ΧοῦνοιまたはΧουνοἰ)がスニ(Suni)の統治下にあるポントス地方の バスタルン族英語版 ロクソラン族英語版の間に住んでいると述べている。彼は2世紀の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。西ローマ帝国がしばしば「クーノイ」 (Χοῦνοι)または「ウーノイ」(Ουννοι)と書いており、東ローマ帝国では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」 (Χοῦνοι) と「ウーノイ」(Ουννοι) の類似は偶然である可能性もある[3]5世紀アルメニアの歴史家 モヴセス・ホレナツ英語版は「アルメニア史」でサルマタイ族の近くに住むフン族について紹介し、194年から214年の間の何れかに起きたフン族によるバルフ攻略について物語り、この街をギリシャ人が「ウーノク」(Hunuk)と呼ぶ理由を説明している。

確実な記録としては、フン族は4世紀に初めてヨーロッパに現れた。彼らは370年頃に黒海北方に到来した。フン族はヴォルガ川を越えてアラン族を攻撃して彼らを服従させた。6世紀の歴史家 ヨルダネス英語版[4]によると バランベル英語版(ゴート族によって創作された架空の人物ではないかと疑われている[3])に率いられたフン族は グルツンギ英語版東ゴート族)の集落を襲撃した[3]。グルツンギ王エルマナリクは自殺し、甥の息子の ヴィティメール(Vithimiris)が後を継いだ。376年にヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死した。この結果、東ゴート族の大半がフン族に服従した[3]。ヴィティメールの息子のヴィデリック(Viderichus)はまだ幼なかったため、残った東ゴート族の難民軍の指揮権は アラテウス英語版 サフラスク英語版に委ねられた。難民はドニエストル川西方の テルヴィンギ英語版西ゴート王国)の領域へ逃げ込み、それからローマ帝国領へ入った。(ゴート族のローマ帝国侵入後については「ゴート戦争 (376年–382年)」も参照)

フン族の都市包囲戦を騎士道的空想に基づいて描いた14世紀の絵画。注)武器と鎧と都市は時代錯誤である。ハンガリーの ピクタム・クロニクル英語版1360年
フン族による略奪。 ジョルジュ・ロシュグロス英語版画。1910年

逃げ出した東ゴート族の一部に続いてフン族は アタナリック英語版の西ゴート族の領土に入った。アタナリックはドニエストル川を越えて遠征軍を派遣したが、フン族はこの小部隊を避けて直接アタナリックを攻めた。ゴート族はカルパティア山脈へ後退した。ゴート族の難民たちはトラキアへそしてローマ駐留軍のいる安全地帯へ向かった。

395年、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた[3]。フン族はトラキアを攻撃し、アルメニアを蹂躙してカッパドキアを却略した。彼らはシリアの一部に侵入してアンティオキアを脅かし、 ユーフラテス属州を通って押し寄せた。皇帝テオドシウス1世は軍隊を西方へ派遣しており、そのためフン族は抵抗を受けることなく暴れ回り、398年に宦官 エウトロペ英語版がローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて撃退して、ようやく平和を回復することに成功した。

一時的に東ローマ帝国から逸れた間、405年 ラダガイスス英語版率いる蛮族の集団のイタリア侵攻や406年ヴァンダル族スエビ族そしてアラン族のガリア侵入に証明されるようにフン族ははるか西方に移動したようである[3]。この時のフン族は一人の統治者元の一つの軍隊ではなかった。多数のフン族が東西ローマ、そしてゴート族の傭兵として雇われていた。ウルディン(個人名が知られる初めてのフン族[3])はフン族とアラン族の集団を率いてイタリアを守るためにラダガイススと戦った。ウルディンはドナウ川周辺の東ローマ領で騒乱を起こしていたゴート族を破り、400年から401年頃にゴート族の ガイナス英語版の首を斬った。ガイナスの首は贈物と引き換えに東ローマへ与えられてコンスタンティノープルで晒された。

408年、東ローマはウルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。ウルディンはドナウ川を越えてモエシア属州のカストラ・マルティス要塞を攻略した。それから、ウルディンはトラキア一帯を略奪した。東ローマはウルディンを買収しようとしたが、彼の要求額が大きすぎて失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。これによりウルディンの陣営から多数が脱走し、ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた[5][6]。それから程なく、ウルディンは死去している。

西ゴート王アラリック1世の義弟アタウルフは、409年に ジューリア・アルプス山脈南方でフン族の傭兵を雇っていたようである。彼らは皇帝ホノリウスの最高法官オリンピウスに雇われた別のフン族の小集団と対峙した。409年後半に西ローマ帝国は、アラリックを防ぐためにイタリアとダルマチアに数千のフン族を駐留させ、このためアラリックはローマへ進軍する計画を放棄している。

410年頃にフン族は、ドナウ川中流域の平原を制圧した[7]。フン族は東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返し、このため東ローマ皇帝テオドシウス2世は430年頃に、フン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結んだ[8]

一方で、フン族は西ローマ帝国の将軍アエティウス(少年時代にフン族の人質となった経験を持つ)の傭兵となって帝国内の内戦やゲルマン諸族との戦争に参加した。433年、フン族は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の母后ガッラ・プラキディアとの内戦状態にあったアエティウスとの取引により、軍事力提供の見返りにパンノニア(とイリュリクムの一部)の支配を西ローマ帝国に認められた[9]

アッティラ統治下の統一帝国

アッティラのレリーフ。16世紀製作: チェルトーザ・ディ・パヴィーア修道院英語版

アッティラの指導の元でフン族は複合弓と優れた馬術による伝統的な騎乗弓射戦術を用いて対抗勢力に対する覇権を確立した。フン族はローマ諸都市からの略奪と貢納金によって富を蓄えて、ゲピド族 スキール族英語版 ルギイ族英語版サルマタイ族東ゴート族といった従属部族の忠誠を維持していた。フン族の状況に関する唯一の長文の直接的な文書は、アッティラへの使節の一員だった プリスクス英語版によるものである。

434年ルーア王が死去して、甥のブレダアッティラの兄弟が共同王位に就いた。即位直後にブレダとアッティラは東ローマ帝国の貢納金を倍額にさせる有利な協定を結んだものの、440年に和平を破って東ローマ帝国へ侵入してバルカン半島一帯を荒らしまわった。東ローマ帝国軍は敗退し、443年に皇帝テオドシウス2世は莫大な貢納金の支払いを約束する条約の締結を余儀なくされた。445年頃にブレダが死に、アッティラの単独統治となった。447年、アッティラは再び東ローマ領を侵攻して略奪を行い、東ローマ帝国軍を撃破している。

レオ1世とアッティラの会見
ラファエロ画。

451年、アッティラは西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、大軍を率いてガリアに侵入した。カタラウヌムの戦いでアッティラは、アエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。

452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇レオ1世の説得により引き返す(実際は、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られている[10][11][12])。

パンノニアに帰還したアッティラは、再度の東ローマ帝国侵攻を企図するが、翌453年に自身の婚礼の祝宴の席で死亡した(脳出血または脳梗塞という説が有力である)。

ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件をキリスト教が布教活動に利用、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになったとされる。

アッティラ以後

5世紀の蛮族の侵入372年から375年のフン族による両ゴート王国破壊が契機になっている。ローマ410年西ゴート族455年ヴァンダル族に掠奪された。
カタラウヌムの戦い アルフォンス・ドヌーフランス語版画)

アッティラの死後、彼の息子のエラクが兄弟の デンキジック英語版および イルナック英語版との争いに勝ってフン族の王となった。だが、従属部族たちがゲピド族長 アルダリック英語版の元に集まり、454年にネダオ川でフン族に挑んだ( ネダオ川の戦い英語版)。フン族が敗れ、エラク王も戦死したことによりヨーロッパにおけるフン族の覇権は終わり、それからほどなくして同時代の記録から彼らは消え失せた。パンノニア平野は東ゴート族にトランシルヴァニアはゲピード族に占領され、その他の諸部族も中央ヨーロッパ各地に割拠した[13]

後代の歴史家たちは、アッティラの民たちの離散と解明についての一瞥を提供している。伝統に従ってエラクの死後、彼の兄弟たちは2つに分離しているが近く関係する遊牧集団を黒海北方の平原で率いた。デンキジックは クトリグール英語版・ブルガール族および ウトリグール英語版・ブルガール族の王(カーン)となったと信じられ、一方プリスクスはクトリグール族とウトリグール族はイルナックの2人の息子に率いられ、彼らにちなんで名づけられたと主張している。このような区別は不明確であり、そして状況はそれほど明快ではなさそうである。

デンキジックとイルナックに率いられたフン族の一部は、パンノニアの東ゴート族に復讐を挑むが撃退され、 ダキア・リペンシス英語版 スキュティア・ミノル英語版といった東ローマ帝国領へ避難した[14]。おそらく、その他のフン族と遊牧集団はステップへ撤退した。事実その後、クトリグール族、ウトリグール族、オグール族(Onogur)、サダギール族(Sarigur)と云った新たな同盟が出現し、これらはひとまとめに「フン族」と呼ばれている。同時に6世紀のスラブ人たちも、プロコピオスによってフン族として紹介されている。

指導者

※アッティラ以前のフン族の指導者については不明な点が多く、諸説ある。

名前 治世 備考
バランベル英語版 360年 - 378年? その実在は疑われている[3]
バルタザール英語版 378年 - 390年?
ウルディン 390年 - 411年 フン族全体を統べる指導者ではなく、複数いたフン族の族長の一人と考えられる[15][16][17]
ドナート 410年 - 412年 ウルディンの後継者。
カラト 410年 - 422年 ウルディンとは別系統。
アッティラにつながる系統の初代フン王とされる。
オクタル英語版 425年 - 430年?
ルーア 420年代[18]または432年 [19]
- 434年
弟オクタルとの共同統治で、420年代に初めてフン族全体の統治を形づくったとの見方もある[20]
ブレダとアッティラの伯父。
ブレダ 434年 - 445年? アッティラの兄、アッティラと共同統治
アッティラ 434年 - 453年
エラク 453年 - 454年
デンキジック英語版 458年 - 469年
イルナック英語版 469年 - 503年
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルーア
 
ムンズク
 
オクタル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブレダ
 
アッティラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エラク
 
デンキジック
 
イルナック
 
 
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