フェルディナント・リース

フェルディナント・リース
Ferdinand Ries
Ferdinand Ries 2.jpg
基本情報
生誕(1784-11-29) 1784年11月29日受洗
出身地神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ボン
死没(1838-01-13) 1838年1月13日(53歳没)
Flag of the German Confederation (war).svg ドイツ連邦フランクフルト・アム・マイン
ジャンル古典派音楽ロマン派音楽
職業作曲家ピアニスト指揮者
担当楽器ピアノ

フェルディナント・リースFerdinand Ries, 1784年11月29日受洗[1] - 1838年1月13日)は、ドイツ作曲家ピアニスト指揮者ベートーヴェンのピアノの弟子であり、晩年に師の回想録「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書」を執筆したことで知られる。

ピアニストとしてキャリアをスタートし、終生にわたり作曲家として活動。交響曲ピアノ協奏曲ピアノ曲室内楽曲オペラオラトリオなど、未出版作品を含め約300曲の作品を残した。作品の多くは死後に忘れ去られていたが、近年、急速に録音が進み、研究活動も活発化している。ベートーヴェン作品に強く影響を受けた古典派様式から出発し、初期ロマン派からロマン派に至る作風を呈している。

生涯

出自、出生およびボンでの少年期(1784年-1801年)[0歳-16歳]

リースの生家があったボン小路。ベートーヴェンも同じ小路で生まれた。

神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父フランツ・アントン、母アンナ・ゲルハルディーナ・ホルスト(旧姓)の長子として生まれ、1784年11月29日、聖レミギウス教会で洗礼を受けた。

リース家は、祖父ヨハネスの代から、ケルン選帝侯に仕える宮廷音楽家一族であった。同じく宮廷音楽家の血筋であるベートーヴェン家とは、代々、同じ職業集団に属し、同じ界隈に居を構え、同じ境遇の中で数世代を共に歩んできた関係である。

ベートーヴェンとリースの生育環境に関して、大きく異なる点があるとすれば、1点目は父親である。リースの父のフランツ・アントンは、宮廷楽団のコンサートマスターを任されたほどの優秀なヴァイオリニストであり、また「イルミナティ」「読書会」および後年のフリーメイソンなど、ボンの街のリベラルな文芸・思想グループの中心メンバーであった。アルコールに溺れて宮廷テノール歌手の職を解雇されたベートーヴェンの父とは対照的な人物であった彼は、少年期のベートーヴェンにヴァイオリンを教え、ベートーヴェン家の金銭管理を代行するなどの支援を行った[2]

フランツ・アントン・リースの肖像画

2点目は、14歳という年齢差がもたらした歴史的事件の影響関係である。長男であるリースは、宮廷音楽家一族の後継者として、音楽の初期教育を受ける。父からヴァイオリンとピアノ、ベルンハルト・ロンベルクからチェロを習い、11歳の時には、父の誕生日のために「弦楽四重奏曲」を作曲した[3]

ところが、1789年フランス革命に続き、1794年にフランス革命軍がボンを占拠すると、宮廷は解体。これにより、父は宮廷音楽家の職を失い、リース自身も将来のキャリアを断たれてしまう。父は教師の仕事や収税吏、農業の仕事などで家計を維持しながら、息子に音楽の勉強を続けさせ、1797年にはアルンスベルク在住のオルガニストに師事させた。これはリースの後の旅行人生の礎となる経験ではあったが、教師は能力に欠けており、最後にはリースの方が彼にヴァイオリンを教えるという不毛な結果に終わった[4]

一方、すでに成人していたベートーヴェンは、フランス軍の占拠直前の1792年ウィーンに旅立ち、ピアニストとして成功を収めていた。「ボンは戦争によって非常に荒廃したので、これからは他の場所で勉強を続けさせるべきである」[5]と判断した父は、かつての弟子である彼を頼る形で、息子をウィーンに送り出すことを決意した。

ウィーンでの修行時代(1801年-1805年)[16歳-21歳]

リースがコンサート・デビューしたアウガルテン・ホール(現在は陶磁器工房)

ベートーヴェンウィーンへの旅が、少額であれど選帝侯からの支援に基づいていたのに対し、リースの旅は経済的に苦しいものであった。彼は途中のミュンヘンで出来高制の写譜の仕事をして、不足した旅費を自力で工面し、通説では1801年[6]にウィーンに辿り着いた。

「ウィーンよりパリの方がよいのではないか」[7]というベートーヴェン自身の当初の助言もあったものの、結果的に、リースはピアノの弟子として受け入れられた。彼は単にピアノのレッスンを受けるだけではなく、演奏会の補助や出版の交渉などのマネージャーのような仕事を与えられ、リヒノフスキー侯爵やブロウネ伯爵といったベートーヴェンのパトロン貴族の前での演奏も任された。これらの一連の活動は、リースのフリーランス音楽家としてのキャリアの土台を作ると共に、顕在化しつつあったベートーヴェンの難聴をフォローする役目も担っていた。

1804年7月19日には、アウガルテンのホールにて、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」を再演し、コンサート・ピアニストとしてのデビューを果たす。リースは、師に禁じられた難度の高い自作カデンツァを土壇場で弾きこなし、彼を喜ばせた。

この時期のエピソードは、彼が晩年に執筆した「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書」に詳しい。(詳細は後述項目「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書」を参照)

ボン、パリ、再度のウィーン(1805年-1809年)[21歳-24歳]

青年期のリースの肖像画

1805年11月頃、ボンの占領を続けていたフランス軍から徴兵されたため、師弟生活は突如終わりを告げる。リースは不本意ながらラインラントに舞い戻り、コブレンツで徴兵検査を受けるが、「幼少期の天然痘の影響により片目の視力を失っていたため」[8]、結果として兵役を免除され、故郷のボンで約1年を過ごす。

同郷の音楽出版者であるジムロックにより、初出版作品「2つのピアノソナタ Op.1」が世に出されたのがこの頃である。リースは、短期間ではあるがウィーンでアルブレヒツベルガーに師事しており、すでに作曲の基礎は学んでいた。 ベートーヴェンへのフランス語の献辞が付けられた同作は、一般音楽新聞で大きく紹介される[9]。これ以降、リースの作曲活動は盛んになり、初期の完成作の多くはジムロック社より出版された。

この時期には他に「6つのドイツ語歌曲 Op.7」「カンタータ「朝」Op.27」、初のピアノ協奏曲である「ピアノ協奏曲第6番 Op.123」などが作曲された。また、父もメンバーの一員であるボンのフリーメイソンに入会し、「「メーソンの祝典」ボンのロッジのための歌曲 Op.44-2」などの作品も手がけた。

1807年初頭、さらなるキャリアアップを目論み、リースはパリに旅立った。当時のフランスは戦勝により活気づいていたが、演奏活動はおろか教師の仕事さえ見つけることができず、苦境に陥ってしまう。しかしそれでも「2つのヴァイオリンソナタ Op.8」や「幻想的ソナタ「不運」Op.26」など初期の代表作を含む約25作が書かれた。また、現地の知己からロシアでの音楽活動を提案され、これが数年後に実現されることになる[10]

1808年8月27日[11]、リースは3年ぶりにウィーンに戻り、ベートーヴェンと再会する。彼が再度ウィーンを訪れた理由は明らかではないが、職を求めていた形跡がある一方、作品の多くを東欧やロシアにルーツを持つベートーヴェンのパトロンに献呈しており[12]、すでに東方への演奏旅行の準備を行っていた可能性も考えられる。

北欧・ロシアへの大コンサートツアー(1809年-1813年)[24歳-28歳]

ウィーンでの再度の滞在は長くは続かなかった。1809年5月13日にはナポレオンウィーンに無血入城。今度はオーストリア軍からの徴兵という危機に瀕し[13]、またもウィーンから離れざるを得なくなる。これがベートーヴェンとの今生の別れであった。

一旦ボンに戻ったのち、父フランツ・アントンと共に「ボンの冬のコンサート」[14]を開催。彼の唯一のヴァイオリン協奏曲「Op.24」が父によって演奏された。「交響曲第1番 Op.23」「ピアノ協奏曲第4番 Op.115」といった大作が書かれたのもこの時期である。

1812年の「モスクワのフランス軍」

その後、カッセルハンブルクを経て、北欧からロシアの大演奏旅行に出発する。ロシアへの遠征は、当時の音楽家にとって定番のコースであり、戦時にあっては、安全圏への脱出という意味合いも強かった。ところが、戦局の急激な変化により、リースの旅行は波乱万丈のものとなる。乗っていたストックホルムからトゥルク行きの船が私掠船に拉致されるという被害に遭った[15]ほか、リガヴィーツェプスクキエフを巡り、モスクワに向かおうとした折しもその時、ナポレオンのモスクワ遠征と遭遇し、すんでのところでペテルブルクに逃れる。のちにハルモニコン紙に「少なくとも4度(フランス軍に)襲われた男」[16]と書き立てられることになる「4度目」が、まさに、このモスクワでの鉢合わせであった。

それでもなお、リースは音楽活動のための新天地を求め、「ストックホルムを経由して、ロンドンへ、そして多分アメリカへ行くだろう」[17]と手紙に書き残している。最後の「アメリカ」という言葉がどこまで真意であったかは不明であるが、「ストックホルム」「ロンドン」への訪問については、早くも翌年に叶えられることになる。リースは、1813年初頭に再びストックホルムに戻る。2月にはスウェーデン王立音楽アカデミーのメンバーに選出され、3月14日には、リースの最大の出世作といえる「ピアノ協奏曲第3番 Op.55」を演奏。数々の大きな成果を手中にしていった。

この大コンサートツアーの行程の一部には、旧師であるチェリストのベルンハルト・ロンベルクが同行していた。「3つのロシア歌曲の変奏曲 Op.72」「スウェーデンの国民歌による変奏曲 Op.52」ほか、旅中での演奏機会を企図した作品が非常に多く見られる。

ロンドン時代(1813年-1824年)[28歳-39歳]

ロンドン・フィルハーモニック協会の本拠地があったアーガイル・ルームズ

1813年4月末、ナポレオン戦争の終結が半年後に迫る頃、リースはロンドンに辿り着いた。ロンドンは戦争への投資で経済的に疲弊していたが、一方で、すでに戦後の産業文化の躍進を予感させる動きが起き始めていた。音楽業界でいえば、出版社やピアノメーカーの成長、新たな音楽協会の創設などが挙げられる。リースは11年間の滞在のなかで、これらと密接な関わりを持った。

彼のロンドンでの音楽活動の基盤を作ったのは、同郷の出身で父の師であるザーロモンである。かつてハイドンを招聘した有名プロデューサーである彼の助力により、リースは、1814年3月14日にロンドン・デビューを飾り、翌年には、彼が創設者の一員であるロンドン・フィルハーモニック協会(現:ロイヤル・フィルハーモニック協会)のディレクターに就任した。これを契機に、リースは計6曲の交響曲を作曲し、定期演奏会では主に「アット・ザ・ピアノフォルテ(ピアノの前での補助指揮)」のポジションに就いて演奏を導いた[18]。また、ピアノ曲や室内楽なども数多く手がけ、1820年代前半には、その人気は国内外で頂点に達した[19]

「第九」のロンドン初演(1825年)を示すプレート

協会の同僚には、先のザーロモンをはじめとして、クレメンティクラーマーのように、音楽ビジネスマンとして成功を収める者たちが数多くいた。こうした気風のなかで、リースもまた、作曲、演奏活動のみならず、同郷の音楽家のロンドン招聘事業に携わった。1820年にはシュポーアを招聘[20]することに成功。旧師ベートーヴェンを招聘する計画[21]は頓挫するが、それは結果として「交響曲第9番」誕生の契機を生むこととなった。また、「ハンマークラヴィーアソナタ[22]をはじめとした、ベートーヴェンの数多くの作品の出版と普及に貢献した。

このような一連の活動および、上流階級のコミュニティや王立音楽アカデミー(1822年創立)でのピアノ教師の仕事に加え、彼のロンドンでの社交・経済生活を支えたのが、ゴルトシュミット(ゴールドスミス)家をはじめとする複数の銀行家や商人の一族であった。私生活においては、1814年7月25日に、イギリス人女性のハリエット・マンジンと結婚。同地で2女1男をもうけた。


だが、イギリスの音楽業界は、資金は潤沢であるが後進的かつ保守的であり、またイギリス人と外国人の対立が絶えない環境であった。リースも、1820年には協会内部の争いに巻き込まれ、1821年にディレクターを辞任[23]。経済的な蓄えはすでに十分であったため、ボンへの帰郷を決意。1824年5月3日のお別れコンサート[24]にて「ピアノ協奏曲第7番 Op.132」を演奏したのち、妻子と共にロンドンを離れる。

ボンへの帰郷(1824-1827年)[39歳-42歳]

バート・ゴーデスベルクのリースの家。現在はプレートが飾られている。

リースの帰郷は故郷で歓迎され、地元紙の「ケルン新聞」にその報が書き立てられた[25]ボン郊外のバート・ゴーデスベルクの父の家を購入し、家族と移り住む。この地はいわゆるイギリス人子弟のグランドツアーの訪問地のひとつに数えられ、ロンドン生活を終えたばかりのリース家にとっては相応しい土地柄であった。

しばらく引退生活を送るかたわら、リースは「ニーダーライン音楽祭」の音楽監督に就任。1825年5月22日には旧師ベートーヴェンの「交響曲第9番」を自身の指揮により再演した[26]。ニーダーラインの都市(アーヘンデュッセルドルフケルン他)に大きな経済的・文化的効果をもたらしたこの音楽祭は、メンデルスゾーンとの持ち回りにより開催されるようになり、彼は死の前年まで音楽監督を務めた。

この時期に書かれた大作としては「ピアノ協奏曲 第8番 「ラインへの挨拶」 Op.177」がある。しかし、未婚の弟妹や父と後妻一家への経済的援助、また多額の債券を取引していたゴルトシュミット銀行の破産[27]により、生活は当初の予想ほど安泰なものではなくなっていた。

わずか3年で、リースは故郷をあとにし、妻子と共に、大商業都市であるフランクフルト・アム・マインへ移住した。1827年4月初頭、師ベートーヴェンがウィーンで亡くなった直後であった。

フランクフルトでの最後の10年(1827年-1838年)[42歳-53歳]

フランクフルトでの最初かつ最大の収穫は、オペラの成功である。バート・ゴーデスベルク在住時より構想されていた処女作オペラ「盗賊の花嫁」は、台本作家との意見の不一致で制作が難航したものの、1828年10月15日にフランクフルトで初演され、大成功を収めた[28]。師の「フィデリオ」と同じく救出オペラの筋を持つこの作品は、ドイツの諸都市で再演を重ね、早くも1829年7月15日にはロンドンで英語版が上演された[29]

このオペラの成功、およびニーダーライン音楽祭での「第九」やヘンデルハイドンのオラトリオの指揮の経験が、リースを声楽ジャンルの開拓に導いた。オペラ3作、オラトリオ2作が、この最後の10年間で作曲されている。

ニーダーライン音楽祭が開催されていたアーヘン劇場(1826年)

国外への活動も精力的に行われた。1831年にはダブリン音楽祭に招聘されたほか、1832年から翌年にかけて、妻とスイスイタリアに長期旅行。ここでは最後のピアノ協奏曲「第9番 Op.177」、最後のピアノソナタ「Op.176」、最後の弦楽四重奏曲「WoO 48」などを作曲した。1836年から1837年5月にかけては、パリ(コンセルヴァトワールでの演奏会)、ロンドン(フィルハーモニック協会での演奏会)、アーヘン(ニーダーライン音楽祭)を巡るハードな旅程をこなした[30]

しかし、一方で、全盛期には非常に多作であった筆は、晩年に至るにつれやや陰りを見せていった。1829年に末娘を失った強い精神的打撃[31] は1年近く彼をさいなませ、1832年の手紙には、音楽出版社との関係が芳しくないという言葉もみられる[32]。ピアニストの世代交代や出版作品の大衆化という、1830年代以降の新たな潮流のなかで、彼の作風はシューマンなど一部の若い世代から支持される一方、芸術的にも商業的にも、最前線からは徐々に退いていったといえるだろう。40代より患ったリウマチによりピアニストとしての活動も減少し、妻の持病も不安の種であった。

それでも、リースの名声は1838年1月13日の死に至るまで持ちこたえた。死の前年には、ヨハン・ネーポムク・シェルブレの後を継いで、フランクフルトの合唱団体である「チェチーリア協会」の音楽監督の地位を得ている。

また、「ベートーヴェンの弟子」という肩書は、青年期から人生の最後まで彼に大きな役目を与え続け、彼自身もそれに積極的に応え続けた。ボンのベートーヴェン像建立計画(1845年に完成)にも協力し、チャリティー演奏会を企画[33]。晩年には、友人のヴェーゲラーと共に「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する覚書」を執筆した。残存するヴェーゲラー宛の最後の手紙[34]には、死の病に苦しむ様子に続き、「覚書」に関する膨大な補足が書かれている。

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