パレスチナ独立戦争

パレスチナ独立戦争
イギリス委任統治領パレスチナの反乱
Train hostages.jpg
武装列車に乗るイギリス兵と2人のパレスチナ人捕虜
1936年~39年
場所 パレスチナ(現在のイスラエル+パレスチナ)
結果 反乱の鎮圧
衝突した勢力

イギリスの旗イギリス
Flag of the British Army.svg イギリス陸軍
パレスチナ警察軍
ユダヤ人居住区警察
ユダヤ人臨時警察
特殊夜間分隊


イシューブ


パレスチナ・アラブ平和団

Flag of Hejaz 1917.svg パレスチナ人
アラブ高等委員会(~1937年10月)
パレスチナ国立ジハード中央委員会(1937年10月~)


地方勢力反乱(ファサーイル)
アラブ世界の義勇兵
指揮官

アーサー・グレンフェル・ワウチョープ将軍
パレスチナ・トランスヨルダン高等委員会最高指揮官
(1932年~38年)
ハロルド・マクミカエル高等委員(1938年~44年)
Flag of the British Army.svg ジョン・ディル陸軍中将(1936年~37年)
Flag of the British Army.svg アーチボルド・ウェーヴェル陸軍中将(1937年~38年)
Flag of the British Army.svg ロバート・ハイニング陸軍中将(1938年~39年)
Flag of the British Army.svg バーナード・モントゴメリー陸軍少将(第8歩兵部隊司令官)(1938年~39年)
Air Force Ensign of the United Kingdom.svg ロデリック・ヒル空軍准将(パレスチナ・トランスヨルダン空軍)(1936年~38年)
Air Force Ensign of the United Kingdom.svg アーサー・ハリス空軍准将(パレスチナ・トランスヨルダン空軍)(1938年~39年)
Naval Ensign of the United Kingdom.svg ダドリー・パウンド 地中海艦隊海軍大将(1936年~39年)


エリヤフ・ゴロンブハガナー司令官
アブドゥ・アル・ラヒム・アル・ハッジュ(アブ・カマル)最高司令官(戦死)
ファウジ・アル・カウクジ(追放)
ハサン・サラマ
アミーン・フサイニー(亡命)
ラグヒブ・アル・ナシャシビ(負傷)
イッザトゥ・ダーワザ(亡命)
アブドゥル・ハッリク(戦死)
ユスフ・サイドゥ・アブ・ドゥッラ(処刑)
ユスフ・ハムダン(戦死)
ファフリ・アブドゥ・アル・ハディ(負傷)
アリフ・アブドゥ・アル・ラジク
モハンマドゥ・マフモウドゥ・ラナーアン
ハミドゥ・スレイマン・マーダウィ(戦死)
ムスタファ・オスタ(戦死)
ファーハン・アル・サーディ(処刑)
アブドゥ・アル・カディー・アル・フサイニ(亡命)
アフマドゥ・モハマドゥ・ハサン(アブ・バクー)
イブラヒム・ナッサー
モハンメドゥ・サレー・ハマドゥ(戦死)
アブ・イブラヒム・アル・カビー
ワシフ・カマル
イッサ・バッタトゥ(戦死)
サーイドゥ・アル・アス(戦死)
戦力
イギリス兵:2万5000人~5万人 [1] [2]
ユダヤ人警察、臨時定住護衛:2万人 [3]
ハガナー戦士:1.5万人 [4]
パレスチナ警察軍:2883人(1936年) [5]
エツェル兵:2000人 [6]
1000人~3000人(1936年~37年)
2500人~7500人(1938年)
6000人~1.5万人の追加兵 [7]
被害者数
イギリス軍:262人が死亡、550人が負傷 [8]
ユダヤ人:300人が死亡、4人が処刑 [9] [8]
アラブ人:5000人が死亡、1.5万人が負傷、108人が処刑、1万2622人が監禁、5人が亡命 [1]
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パレスチナ独立戦争もしくはパレスチナ・アラブ反乱英語: 1936–39 Arab revolt in Palestineヘブライ語: המרד הערבי הגדול‎)は、 イギリス委任統治領パレスチナのパレスチナ・アラブ人が大量の ユダヤ人入植への反発とイギリス植民地支配に対し独立を求め起こした民族主義反乱である [10]

反乱は主に2つの期間に分類される。 [11]第1期は都市の精鋭である アラブ高等委員会(HAC)が指揮し、同盟罷業と政治的抗議が主だった。 [11]1936年10月までに、この段階はイギリスの パレスチナ・トランスヨルダン高等委員会が政治的合意、外交( イラクサウジアラビアトランスヨルダンイエメンの支配者を含む)、 戒厳令を組み合わせて破壊した。 [1] [11]

一方、第2期は1937年後半に始まり、暴力的で貧民が率いる抵抗運動がイギリス軍を襲撃した [11]。第2期の間、反乱はイギリス軍やパレスチナ警察軍が野蛮な方法で鎮圧する事で、アラブ人の反乱への援助を削る事を狙った [11]

イギリスの公式の記録によると、軍と警察は戦闘で2000人以上のアラブ人を殺害し、108人を処刑し、961人がイギリスの言う「ギャング・テロ行為」で殺害された [8] [1]

イギリス統計局の ワリドゥ・ハリディの分析によると、1万9792人のアラブ人が犠牲者となった。内訳はイギリス人に殺された3832人、「テロ行為」で殺害された1200人(死者合計5032人)、負傷者が1万4760人である。 [1] パレスチナ人の成人男性(20歳~60歳)の1割以上が死亡・負傷・収監・亡命した。 [12] パレスチナ・ユダヤ人は91人~数百人が殺害されたと推定されている。 [13] [14]

パレスチナでの反乱は失敗したが、のちの パレスチナ戦争(1948年)のきっかけになった。 [15]

この反乱はイギリスによる ハガナーのようなシオン主義軍事組織へのアラブのパレスチナでの大規模支援に繋がり、反乱の指導者であるエルサレムの大ムフティである ハジュ・アミン・アル・フッセイニ(1897年~1974年)は亡命した。

背景

1930年、シェイクの イッズ・アドゥ・ディン・アル・カッサム(1882年~1935年)は、 反シオニズム且つ反イギリスの軍事組織である 黒の手を設立した。カッサムは貧民を雇用し軍事訓練を施し、1935年までに200人~800人を数えるようになった。構成員は爆弾や火器で武装し、ユダヤ人入植者を殺害し、入植者が植えた木やイギリス人が引いた鉄道を破壊した [16]

1935年11月、カッサム軍の2人が果物泥棒を探す パレスチナ警察を1人殺害した。この事件の後、イギリスはカッサムを ヤーバドゥ近くの洞窟に追い込み、戦闘によって殺害した。 [16]カッサムの死はアラブ社会に大きな怒りを引き起こした。多くの人がカッサムの遺体を ハイファに埋葬した。( Gilbert 1998, p. 80)1935年10月、パレスチナ人は ヤッファ港の セメント事件ハガナーの運命を決定した。アラブ人がユダヤ軍を恐れる感情がパレスチナ人も覆い、 [17] [18]ユダヤ人入植が最多となる1935年の数か月前にパレスチナ人が全土で反乱を起こした。 [1] [19]1933年~36年の4年間で16.4万人以上のユダヤ人がパレスチナに入植し、1931年~36年の間にユダヤ人人口は17.5万人から2倍以上の37万人に増加した。これはユダヤ人人口が17%から27%に増加した事を意味し、パレスチナ人とユダヤ人の間に決定的な関係破壊を齎した。 [20]

1936年4月15日、 ナーブルスから トゥルカームに向かう護送団への攻撃から反乱は始まり、その中で恐らくカッサミテの攻撃者がユダヤ人運転手イスラエル・カザン、ズヴィ・ダンネンベルグの2人を撃った [21]。カザンは即死、ダンネンベルグは5日後に死亡した [1] [22] [23] [24]

翌日、ユダヤ人の エツェル(ユダヤ民族軍事機構)は報復として ペタク・チクヴァ近くの小屋で眠っていたアラブ人労働者2人を射殺した [1] [25]

4月17日に テルアビブで行われたカザンの葬儀はユダヤ人による暴動に繋がり、アラブ人の子供達が殴られ所有物が破壊された。 [26]4月19日~22日のヤッファとテルアビブの暴動で、ユダヤ人16人とアラブ人5人が殺害された。 [27]これを受けてアラブ人将軍が始めた反乱は1936年10月まで続いた。 [1]

1936年の夏には、何千ものユダヤ人の果樹園が破壊され、ユダヤ人は攻撃され殺害され、 ベト・シェアンアッコ等のユダヤ人社会は安全な地域に避難した。( Gilbert 1998, p. 80)

経済背景

経済要因も独立戦争の開始に大きな影響を与えた [28] 。パレスチナの ファッラーヒーン(貧農)はアラブ人人口の2/3を占め、1920年代から都市に大量に移住したが、そこでも貧困と社会的限界にぶつかるだけだった [28]

多くはヤッファとハイファのあばら家に住み、そこで貧者の中で働くカリスマ的伝道者のカッサムの援助と励ましを受けた。 [28]カッサムの存在が独立戦争を全土に広めた。 [28] 第一次世界大戦はパレスチナの特に田舎を深く貧しくした。 [28] オスマン帝国と委任統治政府が農作物に重税を課し、更に1920年~30年代に安い輸入品や自然災害によって価格が急落した為貧農の生活は更に苦しくなった。 [28]

貧農の地代は人口密度上昇やユダヤ人入植機構( ユダヤ人国立基金)による土地の強奪により鋭く上昇し、地代を払えない為に追い出される貧農が続出した。 [28]1931年までに59万人のアラブ人が164km²の低地農地を所有していたのに対し、5万人のユダヤ人が102km²を所有していた。 [28]

1931年以降「土地を持たないアラブ人」問題は大きくなり、ワウチョペ高等委員はこの社会的貧困が不満を生み、深刻な混乱に繋がるかも知れないと警告した。 [28]委任統治政府はアラブ人からユダヤ人への土地の移動を制限したが、容易に法の抜け道が見つけられ上手く機能しなかった。 [28]政府の経済成長・健康維持への投資の失敗と、 イシューブ(ユダヤ人共同体)への投資だけを考えるシオン主義政党により、問題は更に拡大した。 [28]政府はアラブ人の最低賃金をユダヤ人より低く設定する事で、ユダヤ人共同体の経済基盤(例:ハイファ発電所、シェメン石油・石鹸工場、グランズ・モウリンズ製粉所、ネシェーセメント工場等)を地方のアラブ人に低賃金で作らせる事に成功した。 [28]

1935年以降は、建設過熱期の停滞と排他的ヘブライ労働計画へのユダヤ人共同体の集中によって、地方からの流入者は職を殆ど得られなくなった。 [28]1935年にはアラブ人労働人口のたった5%の1.2万人がユダヤ人部門で働き、その内半分は農業部門だった。3.2万人は委任統治政府で働き、21.1万人は自営業かアラブ人雇用者の下で働いていた。 [29]オスマン帝国時代から続くパレスチナの農業の崩壊は、土地を持たない為に都会で阻害され貧しく暮らす貧農を多く生み出し、彼らは喜んで独立戦争に参加した [28]

政治・社会文化的背景

アラブ・パレスチナ人女性協会の創始者である女権論活動家の タラブ・アブドゥル・ハディ(1910年~1976年)

最初はシオン主義との衝突はアラブ・パレスチナ人社会を文化・社会・宗教・政治の面で保守的にした。イギリス植民地主義とユダヤ人の侵略の2つの衝撃に対抗して、自分達独自の遺産や存在を保護しようと強く動機付けられたからだ。 [30]伝統的にアラブ人は精鋭を輩出していたが、本当の意味での指導者はいなかった。 [30]

1930年代に両方変わった。 [30]この期間に新しい政治組織や新種の活動家が現れ始め、社会全体を巻き込むようになった。特に田舎社会に長く根付いていた民族主義が都会に定着し始めた。 [31]この時期若い活動家が急増した。有名な組織に1931年からシオン主義への武力抵抗を呼びかける「 若者のムスリム協会」や汎アラブ感情を表明した「 若者議会党」、1936年初頭に設立されて総同盟罷業で活躍した「 パレスチナ人スカウト協会」がある。 [31]活発な社会問題となっていた女性組織も1920年代末から政治に関わるようになった。1929年にエルサレムで開催された「アラブ女性議会」は200人の参加者を集め、「アラブ女性協会」(後のアラブ女性連合)と共に女権論者のタラブ・アブドゥル・ハディが同時期に設立した。 [31] [32]1930年代初頭から新しい政党が現れ始めた。中でも インド国民会議式ボイコットを主張する「 独立党」や、 [33] ナシャシビ派の「 国民防衛党」、フセイニ派の「 パレスチナ人アラブ党」、ハリディ派の「 改革党」、ナーブルスを基盤とする「 国民議員連合」が有名である。 [34]

一方で、武装蜂起を目指す地下軍事組織も少数ながら存在した。 ツファット山を中心としたが1931年にイギリスが消滅させた「緑の手」や、 ヘブロン市を中心としたアブドゥ・アル・カディー・アル・フサイニが率いる「聖なる抗争の為の組織」(1948年の 第2次パレスチナ独立戦争で重要な役割を果たした)や、1935年から トゥルカーム市や カルキルヤー市を中心とする「反抗する若者」が有名である。 [34]伝統ある ネビ・ムサ祭も政治・民族主義的意味合いを持ち始めた。1917年の バルフォア宣言を祝う11月2日の「バルフォアの日」や、「 ヒッティーンの戦い記念日」(1187年6月4日に サラーフッディーン(1137年~1193年)がエルサレムを奪還した)、1930年5月16日から祝うようになった「パレスチナの日」といった国民の記念日が導入・追加された。 [34]教育の普及や 市民社会・輸送・意思疎通・広報の発展の全てがこれらの変化を生み出した。 [35]

地域的政治背景

近隣のアラブ諸国の政治体制の変化は、パレスチナ人に西側諸国の植民地の中で政治圧力と交渉技術を使って何が得られるか考えさせた。 [36]シリアでは1936年1月20日~3月6日にかけて総同盟罷業が全土の主要都市で行われ、国中で起きた政治的示威運動はシリア民族運動に新鮮な弾みを付けた。フランスの反応は厳しかったが、政府は フランス・シリア独立条約(1936年)を交渉する為にシリア人の代表をパリに派遣する事に3月2日に合意した。 [37]この事は経済的・政治的圧力によって脆い帝国支配に対抗出来る事を示した。 [38]

1936年3月2日、 エジプトで行われたイギリスとエジプトの一連の交渉は イギリス・エジプト条約(1936年)に繋がり、 スエズ運河地域におけるイギリス軍の駐留は続くもののエジプトは独立を勝ち取った。 [39] [40]イラクでは総同盟罷業が1931年7月に起き、通りで組織された示威行動を行った事もあり、 ヌーリー・アッ=サイード首相(1888年~1958年)の下でイギリス委任統治領から独立し、1932年10月には 国際連盟に正式加盟した。 [41]

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