シティ・オブ・ロンドン

シティ・オブ・ロンドン
City of London
—  シティおよびカウンティ  —
テムズ川南岸からみたシティ・オブ・ロンドン(2015年9月)


紋章
愛称:the Square Mile, the City
標語:Domine Dirige Nos
("主よ我らを導き給え")
グレーター・ロンドン内におけるシティ・オブ・ロンドン
地位スイ・ジェネリス; シティおよびカウンティ
主権国家イギリスの旗 イギリス
構成国イングランドの旗 イングランド
リージョンロンドン
ローマ人の入植紀元後47年頃
ロンディニウム
ウェセックス再植民紀元後886年
区 (Wards)
行政
 - 議会シティ・オブ・ロンドン・コーポレーション
 - ロンドン市長Andrew Parmley
 - 市書記John Barradell
 - 行政府所在地ギルドホール英語版
 - ロンドン議会議員Unmesh Desai (Lab) (City and East区選出)
 - 英国議会議員Mark Field (Con) (Cities of London and Westminster区選出)
面積
 - 計2.90km2 (1.1mi2)
最高部21m (69ft)
最低部0m (0ft)
人口 (2011)
 - 計8,072人
 - 順位325位(全326地区中)
民族構成 (2011)[1]
 - 百分率
等時帯GMT (UTC)
 - 夏時間BST (UTC+1)
郵便コードEC, WC, E
ONSコード00AA
市外局番020
守護聖人聖パウロ
警察機関ロンドン市警察
ロンドン交通局ゾーンゾーン1; コンジェスチョン・チャージ・ゾーン
ウェブサイトcityoflondon.gov.uk

シティ・オブ・ロンドン: City of London)は、イングランドロンドン中心部に位置する地区[注釈 1]。その周辺地域とコナベーションを形成している[3]。現代のメトロポリスロンドンの起源となる地域で、その範囲は中世以降ほとんど変わっていない[注釈 2]。単にシティ(the City)、またはスクエア・マイル(the Square Mile)とも呼ばれる[4][注釈 3]。シティの行政はシティ・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)が執行している[注釈 4]。この自治体の首班はロンドン市長(Lord Mayor of London)である[注釈 5]2000年に再設置された大ロンドン庁ロンドン市長(Mayor of London)とは異なる。

シティは英国のGNPの2.5%に貢献している[5]。シティはロンドン証券取引所イングランド銀行ロイズ本社等が置かれる金融センターとして[注釈 6]ニューヨークウォール街と共に世界経済を先導しており[6]、世界有数の商業の中心地としてビジネス上の重要な会合の開催地としても機能している[7][注釈 7]

1990年代初期にはIRA暫定派がシティ内に複数の爆弾を仕掛けて爆発させる事件が発生した[注釈 8][注釈 9]。シティに居住する人口はおよそ11,700人だが、金融業を中心に約31万6,700人の昼間人口がある[9]

歴史

マグナカルタまで

現在の連合王国のローマ人による侵略は、紀元43年頃に始まった。彼らの、現在のシティにおける本来の意図は、テムズ川に橋を掛け(現在のロンドン橋)、既にあったローマ人居住区間の行き来を可能にすることであった[注釈 10]。しかし川の利用価値に気づいた[注釈 11]。そこで紀元50年頃に川の北岸に居留地を作り、ロンディニウム(Londinium)と名付けた。

3世紀末に反乱がおき(Carausian Revolt)、4世紀後半にハドリアヌスの長城が破られた。ピクト人サクソン人、スコットランド人ら地元勢力が力を示した。410年ホノリウスが諸都市に自衛を命じてブリテン島の防衛を放棄してしまった。6世紀にアングル人とサクソン人の部族国家が生まれ、七王国の基礎となった。9世紀、ベオルンウルフが凋落しアルフレッド大王が台頭した。この時代にロンドンは再入植のうえ独立行政区となった。10世紀初頭ムスリムの世界的な商圏で銀貨の不足がおこり、交易ルートの北限であったヴァイキングの侵攻に隙が生まれ、アゼルスタンがデーンロウの奪還に成功した。ウェセックスによる開拓地であったシティは、ドゥームズデイ・ブック(1085年)にも載らなかった。

12世紀ヨーロッパ人、特に北イタリアのロンバルディア人が移住してきた(ロンバード・ストリート)。そしてこのころシティ議会の原型が生まれた[注釈 12]。1215年のマグナ・カルタがシティの国際市場化するきっかけとなった。シティは、1203年までには24区に分けられていたが、1394年にファリントン区(Farrington Ward)が二分され25区となった[注釈 13]。シティ参事会は各区長で構成され、そこから毎年の長を選んだ[10]。区長は各区の市議会と行政を担った。参事会と市議会の双方に、同業者ギルドが多くの代表を出した。

国際金融市場の形成

1550年、シティに新しく一区が設けられ、全部で26区となった[注釈 14]。5年後にモスクワ会社の前身が勅許を得た(Company of Merchant Adventurers to New Lands)。1570年、トーマス・グレシャムと彼の国際人脈がシティに王立取引所(Royal Exchange)を設けた。これは欧州アントウェルペンのそれを模したものであった。銘柄と郵便の国際化により、王立取引所の利便性は向上した。1592年レバント会社が設立され(Levant Company)、その運営が東方問題を国際経済面で惹起した。1616年ジョン・リーマン(John Leman)がシティの長となった。1636年、チャールズ1世の御用金融家(Philip Burlamachi)が政府の手形交換所として中央銀行を構想した。清教徒革命でシティは、軍事費を徴収されたり、娯楽を規制されたりした。1666年ロンドン大火フリート・ストリートが燃えた[注釈 15]。1672年ホア銀行(C. Hoare & Co)が設立された。1712年、創業者がシティの長となった。

1720年、南海泡沫事件。1725年、減債基金を流用していたロバート・ウォルポールのシティ選挙法が、民主的な市議会の決定を富裕な参事会が拒否できる権限を与え非難を浴びた。1734年イングランド銀行が現住所のスレッドニードルへ移転してきた。1750年にウェストミンスター橋ができたので、ロンドン橋がテムズ川唯一の橋でなくなった。それから十数年、モスクワ会社のアンガースタイン(John Julius Angerstein)がシティで青年期をすごした[11]。1760年、ジョージ3世の即位式に810人のマーチャント・バンカーが参加した。そのうち、少なくとも250人は外国人だったといわれる。2年後ベアリングス銀行が設立された。1773年にロンドン証券取引所が誕生した。翌年ジョン・ウィルクスがシティの長となった。このころイーストエンドのスラム化が社会問題であった。シティの人口は1700年時点で20万人超であったが、1801年は13万人であった[注釈 16]。19世紀初頭の大陸封鎖令に政府が対抗措置をとった。これが疲弊したイギリス経済に追い討ちをかけた。1810年マーチャント・バンカーのアブラハム・ゴールドスミッド(Abraham Goldsmid)が自殺した。ベアリングと並ぶ英国債引受者であった。米英戦争が終わるとシティは世界一の国際金融市場となっていた[注釈 17]

経済格差と人口流出

1822年10月ヴェローナ会議で東方問題をめぐる交渉が決裂してイギリスは五国同盟を脱退した。翌年シティのブローカー兼ジョバーであったデヴィッド・リカードが死んだ。1825年の恐慌(Panic of 1825)で、イングランド銀行総裁(Cornelius Buller)と姻戚であったポール・ソーントン銀行(Pole, Thornton & Co.)が中央銀行から支援を得たが倒産[12]ウィリアムズ・ディーコンズ・バンクとなった。1837年恐慌では「3W(the three W's)」と呼ばれた三人のアメリカ人がイングランド銀行の資金注入を受けた[注釈 18]。彼らは合衆国銘柄を株式公開したり、対米貿易金融のパートナーを募ったりして、非常な人気を博していた。この1830年代にはスミスフィールドの市に対する課税額が引き上げられた。1851年、海底ケーブルドーバー海峡で開通した。1854年、株式会社銀行がシティの手形交換所(LCH)へ加入することが認められた。以降、20世紀末まで人口減少が止まらなかった[13]

保険と小口株式が広く資金をよびこみ、その資金が長期投資へ向かうようになった。シティのそうした経済構造は、19世紀後半のあいだ周期的な恐慌をもたらした(クリミア戦争の戦後不況からベアリングス銀行の救済劇まで)。そこでシティを周辺地区と合併しようとする議論がおこり、1894年に王立委員会(Royal Commission on the Amalgamation of the City and County of London)が開かれたが、ウェストミンスターの意見変更により合併は行われなかった。

19世紀後半の経済構造は、ドーバー向かいのフランスをはじめとする欧州各国と関係しながら形成された。シティのマーチャント・バンク事務員は徒歩で混雑に耐えながら通勤し、薄給から各種保険料を払いながら生活していた。語学力のある通信士は高給取りであったが、しかし彼らの多くは外国人であった。両者の差は生涯賃金だけでなかった。およそ10年ごとに襲い来る恐慌から逃れる術を分かるかどうかは、語学力や職場環境によったのである。この経済格差を生じた期間には、スミスフィールドの市とシティの教区墓地が閉鎖となり、乗合馬車と鉄道が順に整備され、昼間人口が増えていった。

ロイズは、泡沫法が1824年に廃止されたことで海上保険業の独占を切り崩されていた(ロスチャイルド#ウィーン体制下)。1902年、ロイズの家系で主要な引受メンバーでもあったパーシー・バーナンド(Percy George Calvert Burnand)が財政危機に陥った。イギリスの造船業が19世紀後半にトップシェアを記録しつづけたので、海上保険市場は拡大していた。建艦競争がドイツ帝国との間に起こることもあった。その陰で、ロイズは静かに凋落し変化していった。

金本位制を離脱するまで

1912年、金融スキャンダルが二件あった。一つは昨年来ロンドン貴金属市場に参加していたサミュエル・モンタギュー(Samuel Montagu & Co.)というマーチャント・バンクが、イングランド銀行や政府と組んでインドの銀価格を操作して下げたという、タイムズの連載記事となったインディア・シルバー・スキャンダル。もう一つはグリエルモ・マルコーニを優遇し大英帝国の無線網を構築させ、あまつさえ政府がマルコーニ社の米子会社へ資本参加していたというものであった(Marconi scandal)。

第一次世界大戦のシティは敵国との経済関係に打撃をうけた。戦後モンタギュー・ノーマンが復旧に活躍した。彼は「シティの法王」とよばれ、また国際決済銀行の一員として金本位制を支持していた。1924年6月、ノーマンはイギリスを金本位制に復帰させる委員会をつくり、翌月までに9回召集した。参加者は、オースティン・チェンバレン委員長、アーサー・セシル・ピグージョン・メイナード・ケインズといった経済学者、元財務大臣(Robert Horne)、レジナルド・マッケナミッドランド銀行(現HSBC)会長、ロンドン手形交換所加盟銀行の代表者各位、商工会議所の代表団、そして経団連(Federation of British Industries)である[14]。ここまでして金解禁した結果、イギリスは世界恐慌で未曾有の金流出に見舞われた。1931年9月21日イングランド銀行が金本位制を離脱すると発表した。1933年ソシエテ・ジェネラルのジョージ・ボルトン(George Bolton)がイングランド銀行の理事となった。1932年6月イギリスは為替平衡勘定を創設して、過激にポンドを売り、正金とフランス・フランとアメリカ・ドルを買った。後二者はすぐ兌換した。これに耐えかねて1933年3月には連邦準備制度も金本位制をやめた。まるで1月にドイツ首相となったヒトラーから逃れるように、フランス銀行から金が流れ出ていった。1936年9月25日フランスも金本位制を放棄した。

この同日に英米仏三国通貨協定が締結された。これのためにボルトンやフランス銀行為替取引担当(Charles Cariguel)などの国際金融家が連携をとりあってきた。この協定は、英仏が自国通貨の対ドル相場を安定させることを条件にアメリカが兌換を継続するというものであり、それまで行われてきた自国通貨の切り下げ競争にピリオドを打ってブレトンウッズ協定の礎となった。1937年4月、英仏両政府がベルギーのパウル・ファン・ゼーラント首相に協定の実効性確保に向けた研究を依頼した。

英国病の発見まで

第二次世界大戦中の1940年、シティは火災に遭った(Second Great Fire of London)。ほとんど全ての教会が損壊、そのうち11の教会は再建されなかった。N・M・ロスチャイルド&サンズは戦中から組織改革をすすめ、1947年、節税を目的に新たな持株会社をつくった上で形式的な株式会社となった。1950年、シティがウェストミンスターと国政選挙区を統合した(Cities of London and Westminster)。戦中のLLC(London County Council)権限拡大が統合の背景をなした。

1946年、イギリスはケインズの交渉で37.5億ドルの借款を得た(Anglo-American loan)。これと引き換えにブロック経済が放棄された。借款は世界的なドル不足によりわずか1年9ヶ月で費消された。それまでイギリスは貿易収支の赤字を貿易外収支の黒字で補っていたが、補填できなくなると金・ドル準備が減っていった。ポンドは1958年にドルとの交換性を回復したが[注釈 19]、1968年にド・ゴールの圧力で金の二重価格制が実現するまで値崩れしていった。そもそもの原因は、1943年に37億ポンドに達したイギリスの対外債務である。国際協定により対外債務はイングランド銀行に封鎖預金として累積された。1945年35.67億ポンドに減った。このあとリバウンドして1964年54.76億ポンドに激増した。1964-65年は国際通貨基金から合計24億ドルを引き出し、また1964年には国際決済銀行と先進諸国から30億ドルの借款を得た。英国病で保護しきれなくなったフォレスタルは1969年に解体された。

このような時代の1960年に、ボルトンはシティをユーロカレンシー取引市場として再興しようと言い出した。交換性回復以前からシティにはユーロダラーが出回っていた。ファンド・オブ・ファンズのバーニー・コーンフェルドが営業のため世界を飛び回っていた。

ロンドン自治区として

シティの就業人口(昼間人口の大部分)は、1961年で39.5万人であったが、1986年28万人へ減少した。家賃の高騰が店舗やその他施設を市外へ移動させた[注釈 20]。1961-86年という期間はグレーター・ロンドン・カウンシル(大ロンドン議会)のあった期間と重なっている。初代議長のビル・フィスケ(Bill Fiske)は、イングランド銀行とLLCで活躍した政治家であった。1966年末にポンド十進法化委員会の議長となり、翌年9月に男爵となった。この大ロンドン議会が廃止されてシティをふくむロンドン自治区が権限を回復すると、ビッグバンがスタートしてマーチャント・バンクとストックジョバー(Stockjobber)が次々と買収されていった。

ポンド十進法の採用は、完全な交換性を回復するためのステップであった。1958年の交換性は、イギリス人と国内企業に保障されなかった。ブローカーとジョバーがそれぞれにカルテルを形成している伝統的な証券市場が生き延びることとなった。しかしボルトンが育てたユーロカレンシー市場が情報革命という追い風を受けて、シティのジェントルマンに襲いかかった。1971年ニクソン・ショックがおこり、8年後マーガレット・サッチャーが首相となってすぐポンドの取引規制を全面撤廃したのである。

1986年10月のビッグバンという規制撤廃もジェントルマンの古い聖域に踏み込んだものであった。しかしブローカーとジョバーの兼業解禁は19世紀に逆戻りする考え方であって、利益相反を既成事実化するところは投信と癒着した米国大資本の手口にそっくりだった。シティに投下された外資は弱い産業を育てることなく目先の利益を追求したから、経済効果もそれなりだった。

外資の先鋒はクレディ・スイス。同行が1978年にファースト・ボストンと合弁でCSFBをロンドンに設立した。1988年CSFBがファースト・ボストンを合併し、クレディ・スイスの傘下で証券業を担った。1986年UBSがフィリップス・アンド・ドリュー(Phillips & Drew)を傘下におさめた。フィリップスは年金基金など幅広い顧客ベースを抱えていたが、ブラックマンデーで少なからぬ損失をこうむった。1989年10月インドスエズ銀行(旧インドシナ銀行、1974年からスエズ運河会社の子会社)が、ウィリス・フェイバー(現ウィリス・グループ)が保有するモルガン・グレンフェル株20.4%を買収した。これを敵対的買収と受け止めたモルガンは交渉を急ぎドイツ銀行へ身売りした。1992年、キャドバリー報告書が出された。1995年、ベアリングス銀行が破綻しINGグループが買収、さらにドレスナー銀行がクラインワート・ベンソンを買収した。1997年、ダイアナがパリで死に、発足したブレア政権は党の国有化路線を放棄。住民投票で2000年から動いている大ロンドン庁は、シティの権限を奪うというより、外資の散った全ロンドン自治区の利益を代表している。

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