ケーニヒグレーツの戦い

ケーニヒグレーツの戦い
Battle of Koniggratz by Georg Bleibtreu.jpg
ケーニヒグレーツの戦い
戦争普墺戦争
年月日1866年 7月3日
場所:ケーニヒグレーツ(現 フラデツ・クラーロヴェー)近郊(サドワ村との中間)
結果:プロイセンの勝利
交戦勢力
プロイセン王国の旗 プロイセン王国 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ザクセン王国の旗 ザクセン王国
指導者・指揮官
Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg ヴィルヘルム1世
Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg 大モルトケ
Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg フリードリヒ3世王太子
Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg フリードリヒ・カール親王
Flag of the Kingdom of Prussia (1803-1892).svg ビッテンフェルト大将
オーストリア帝国の旗 フランツ・ヨーゼフ1世
オーストリア帝国の旗 ベネデック
Flagge Königreich Sachsen (1815-1918).svg アルベルト
戦力
221,000
火砲 702門
184,000(オーストリア軍)
22,000(ザクセン軍)
火砲 650門
損害
戦死傷 約9,000人 戦死傷 約24,000人
捕虜 約20,000人
大砲損失187門
普墺戦争
  • クストーツァ
  • ヒューナーヴァッサー
  • ポドル
  • ナーホト
  • トラウテナウ
  • ランゲンザルツァ
  • スカリッツ
  • ミュンヒェングレーツ
  • ギッチン
  • ケーニヒスホーフ
  • シュヴァインシェーデル
  • ケーニヒグレーツ
  • デームバッハ
  • バート・キッシンゲン
  • フローンホーフェン
  • アシャッフェンブルク
  • リッサ
  • ヴァルテッリーナ
  • ヴェッツァ・ドーリオ
  • ベッツェッカ
  • ブルーメナウ
  • フントハイム
  • タウバービショフスハイム
  • ヘルムシュタット
  • イゥッティンゲン

ケーニヒグレーツの戦い(ケーニヒグレーツのたたかい、 : Schlacht bei Königgrätz)は、 普墺戦争における 会戦の1つ。 1866年 7月3日ボヘミア(ベーメン)中部のケーニヒグレーツ(現在は チェコの都市 フラデツ・クラーロヴェー)と サドワ村英語版の中間地点で プロイセン王国オーストリア帝国の軍の間で戦われた。 分進合撃に成功したプロイセン軍はオーストリア軍を包囲し、決定的な打撃を与え、戦争終結を決定づけた。サドワの戦いとも呼ばれる。

開戦まで

前役にあたる 1864年の第二次 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)では、プロイセン・オーストリア連合軍は戦略の拙さからデンマーク軍が島の要塞へ撤退することを許した。この一時は膠着した戦局を途中から打開したことでプロイセン軍では モルトケと参謀本部の力量が認められることとなり、陸軍大臣から各軍団へ国王の名の下に出されていた作戦命令は、以後各軍への作戦は参謀本部より指令される体制が整った。

当時はドイツの統一が進行中であり、この戦争の後に 小ドイツ主義により プロイセン王国を盟主とする ドイツ関税同盟の陣営と、 大ドイツ主義により オーストリア帝国を盟主とする ドイツ連邦の路線対立が先鋭化し、戦争の気配が濃厚となった。

強大でありながら旧態依然としていたオーストリア帝国と異なり、プロイセンでは国王 ヴィルヘルム1世のもとで 鉄血演説を行った宰相 ビスマルク、陸軍大臣 ローン、参謀総長モルトケは戦争準備を進めた。外交的にはイタリアを同盟軍に引き込むことに成功し、オーストリアは戦力を南北に割かれることとなった。技術的にもプロイセンでは クルップにより鉄道や大砲の開発が進み、速射力に優れる後装の ボルトアクションライフルドライゼ銃が採用・普及で一歩先を行っており、戦力や輸送力が充実していた。

戦略構想でもモルトケは、主敵をオーストリア側のドイツ諸邦でなくオーストリア本国に置いた。オーストリアが同盟国の ザクセン王国からプロイセン首都の ベルリンを攻撃するであろう事を予見し、これをザクセンからシュレージェンにわたる約300kmの各方面から包囲的に進発して ボヘミア地方で邀撃する構想を基本に、当初はプロイセンおよび同盟軍の7分の6を投入して分進合撃を行い、隣国の介入を避けるための短期決戦を予定した。軍事連携のための 電信についても整備を行った。ボヘミア方面にはプロイセン側から5本の 鉄道が整備されていたのに対し、オーストリア側からは1本があるのみだった。投入戦力について、ビスマルクの政治的な考慮からライン川方面へも割かれ、結局次の通り(兵力は会戦へ投入された員数)三個軍を投入することとなり、 プロイセン参謀本部より派遣された 参謀長が身分の高い各 司令官に助言を行い、全体的な戦略を指導するシステムを構築した [1]

(その他、ドイツ諸邦)

戦争動員数32万人のプロイセンに対して、一方の フランツ・ヨーゼフ1世治下の オーストリア帝国ではオーストリア軍24万人および同盟ドイツ諸邦軍16万人の計40万人を動員しており、オーストリア優位の下馬評が強かった。会戦に投入されたのは次の通りの兵力であった。

  • オーストリア軍 - 司令官ベネディク元帥・造兵総監(参謀長ヘニックシュタイン中将) 215,000人
  • ザクセン王国軍 - 司令官 アルベルト王子 25,000人
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