イタリア王国 (中世)

イタリア王国
ランゴバルド王国774年[1] - 1797年[2]チザルピーナ共和国
イタリアの位置
947年の西ヨーロッパ。ピンクがイタリア王国の版図。西フランク王国(赤)、東フランク王国(緑)、アルル王国(オレンジ)が見える。メルセン条約が成った時点ではオレンジで示した地域のほとんどがイタリア王国であった(東フランクとの国境が図より少し南だった)。
首都パヴィア(11世紀まで)
イタリア王皇帝
774年 - 814年カルロ1世(初代。フランク王を兼ねる)
855年 - 875年ロドヴィコ2世(イタリア独自の王として初代)
888年 - 924年ベレンガーリオ1世[3]
951年 - 973年オットーネ1世(神聖ローマ皇帝)[4]
1002年 - 1004年アルドゥイーノ(イタリア独自の王として最後)[5]
変遷
カルロ・マーニョのイタリア王戴冠774年
イタリア王国として独立855年
無秩序時代の開始888年
神聖ローマ帝国の支配下となる963年
一時的に独立(2年間)1002年

イタリア王国ラテン語:Regnum Italiae または Regnum Italicum)は、ドイツブルグントと共に中近世の西欧におけるローマ帝国、すなわち神聖ローマ帝国を構成した王国である。名目上はローマ帝国の中核となる国であるが、実際にはフランク王国東フランク王国ドイツ)の従属国だった。8世紀後半に成立して以来1000年以上の歴史を持つが、政治的に独立していたのは9世紀から10世紀にかけての100年足らずだった。歴史的経緯から領域は北部および中部イタリアに留まり、ヴェネツィア共和国南イタリアシチリア王国)を含まない。11世紀まで首都はパヴィアとされた。13世紀には政体としての実態が失われ、16世紀後期にはイタリア王の称号もローマ皇帝位に統合されて消えた。一方でローマ皇帝を頂点とする封建的ネットワークは18世紀末まで維持され、「帝国イタリア」と呼ばれた中北部イタリアはヴェネツィア共和国、教皇領シチリア王国とは明確に異なる領域であった。

概要

773年、カロリング朝フランク王国カルロ・マーニョはイタリアの大部分を領土とするランゴバルド王国に侵攻した。774年6月にランゴバルド王国の首都パヴィアが陥落し、カルロ・マーニョはランゴバルド王=イタリア王を兼ねることを宣言した。中近世イタリア王国の成立である。カルロ・マーニョは800年ローマ皇帝としても戴冠された。カロリング朝のイタリア統治は皇帝カルロ3世が廃位される887年まで続いた。その後はイタリア王国内外の諸侯がローマ皇帝位の前提でもあるイタリア王位を求めて争い続けた。

951年、東フランク王オットー1世がイタリア王国に攻め込み、首都パヴィアでイタリア王オットーネ1世を名乗った。962年にオットーネ1世は924年以来絶えていた皇帝位に登った。以後、東フランク(後のドイツ)とイタリアはローマ皇帝という共通の君主を持つことになった。ローマ皇帝はその前提としてイタリア王であるものの実際には殆どイタリアにいなかったため、イタリアの中央政府は中世盛期に早くも消失した。しかしイタリアがローマ帝国の中の王国であるという認識は残った。ローマ王を名乗るドイツ君主はイタリア王及びローマ皇帝に即位するため度々イタリアに進駐し、発展著しい都市国家群に対してイタリア王としての権力を行使した。12世紀から14世紀にかけてローマ皇帝に反するゲルフ(教皇派、反皇帝派)と支持するギベリン(皇帝派)の間でたびたび戦争が起こった。ゲルフのロンバルディア同盟が著名である。ロンバルディア同盟はローマ帝国からの分離独立を求めたわけではないが、皇帝の権力に対しては公然と挑戦した。

13世紀から14世紀にかけてローマ皇帝権が大きく弱体化したことで都市国家群の独立性は高まった。ルネサンスが花開き、イタリアは文化的にも経済的にも先進国となった。しかし15世紀都市国家群の勢いは衰えた。1423年から1454年にかけてロンバルディアで起こった戦争によりイタリアに割拠していた領邦の数は減少した。さらに1494年からイタリア王国はフランス王国に侵略され、1559年まで続く大イタリア戦争が勃発した。ローマ皇帝、ローマ教皇、イタリア諸侯、フランス王国、スペイン王国の利害が複雑に絡み合った戦争の結果、イタリアにはスペイン・ハプスブルク家の覇権が確立された。スペインはローマ皇帝位を世襲するオーストリア・ハプスブルク家と連携してイタリアを統治した。スペイン・ハプスブルク家が1700年に断絶すると1701年スペイン継承戦争が起こり、1714年ラシュタット条約によってイタリアの覇権はオーストリアのローマ皇帝に引き継がれた。

大イタリア戦争中の1495年から1512年にかけて、神聖ローマ帝国ではイタリア戦争と並行して帝国改造が実施されていた。帝国改造では帝国を10のクライスに分けて治安維持にあたることが決められたが、イタリア王国はアルプス以南の帝国クライス外の領域と位置づけられた。以後、皇帝は司法面でのみイタリア王としての面目を保った。近世イタリア王国の「政府」とは皇帝代理とハプスブルク家領代官の人的ネットワークだった。イタリアにおけるローマ皇帝の統治は1792年から1797年のフランス革命軍によって終わり、フランス革命政府の衛星国家(姉妹共和国)が次々と建国された。1806年、アウステルリッツの戦いナポレオンに敗北した最後のローマ皇帝フランチェスコ2世によって帝国も解体された。

他の言語で
Deutsch: Reichsitalien
português: Reino Itálico
srpskohrvatski / српскохрватски: Kraljevina Italija (Sveto Rimsko Carstvo)