アイトール・ベギリスタイン

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はベギリスタイン第二姓(母方の)はムヒカです。
チキ・ベギリスタインFootball pictogram.svg
名前
本名アイトール・ベギリスタイン・ムヒカ
Aitor Begiristain Mujika
愛称チキ (Txiki)
ラテン文字Begiristain
基本情報
国籍スペインの旗 スペイン
生年月日(1964-08-12) 1964年8月12日(53歳)
出身地オラベリア
身長171cm
体重71kg
選手情報
ポジションFW (WG)
利き足左足
クラブ1
クラブ出場 (得点)
1982-1988
1988-1995
1995-1997
1997-1999
スペインの旗 レアル・ソシエダ
スペインの旗 バルセロナ
スペインの旗 デポルティーボ・ラ・コルーニャ
日本の旗 浦和レッドダイヤモンズ
187 (23)
223 (63)
43 0(4)
61 (16)
代表歴
1988-1994スペインの旗 スペイン22 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アイトール "チキ" ・ベギリスタイン・ムヒカAitor "Txiki" Begiristain Mujika, 1964年8月12日 - )は、スペインバスク州ギプスコア県オラベリア英語版出身の元同国代表サッカー選手。出身地のバスク語で「小さい」を意味する「チキ(Txiki)」の愛称で親しまれた。

レアル・ソシエダFCバルセロナでの活躍で多くの人々に知れ渡り、特に後者ではプリメーラ・ディビシオン4回, UEFAチャンピオンズカップ 1991-92を制する等8つの主要タイトルを獲得した。

スペイン代表としては、FIFAワールドカップUEFA欧州選手権に1度ずつ出場した。引退後はサッカー界でディレクター職を務め、2003年から2010年6月までバルサのテクニカルディレクター, 2012年10月からイングランドプレミアリーグマンチェスター・シティFCのフットボールディレクターに就任した。

経歴

レアル・ソシエダ

バスク自治州ギプスコア県 オラベリア英語版に生まれたベキリスタインは、1982年18歳の頃にレアル・ソシエダの下部組織からトップチームに引き上げられプロキャリアを始めた。最初の1982-83シーズンは、デビュー年ながらリーグ戦で16試合に出場し、ルイス・アルコナーダ, ロベルト・ロペス・ルファルテ英語版, ホセ・マリア・バケーロ, ルイス・ロペス・レカルテ英語版らと共にジョン・トシャック監督の構想に不可欠な選手となった。レアルでのキャリアのハイライトは、1987年に2-2で引き分けPK戦の末勝利したコパ・デル・レイ決勝のアトレティコ・マドリード戦で2得点目を決め、自身初となるタイトル獲得に貢献した時だった[1]

1987-88シーズンは、リーグ, カップ戦でレアル・マドリードFCバルセロナに敗れたことで優勝を逃し2位に終わった。それから、1ヶ月も経たないうちに後者のクラブと同僚のバケーロ, ロペス・レカルテと共に契約を結んだ[2]

バルセロナ

ホームにRCDエスパニョールを迎えたバルセロナダービーで得点を決め2-0で勝利した試合でデビューをし[3]UEFAカップウィナーズカップ決勝でUCサンプドリアを下し優勝したのが、シーズン最後の試合だった。リーグ戦38試合12得点, 欧州カップ戦9試合2得点を記録。この年を皮切りに、同じバスク人のバケーロ, アンドニ・スビサレッタ, フリオ・サリナス, ヨン・アンドニ・ゴイコエチェアらやロマーリオ, フリスト・ストイチコフ共にヨハン・クライフ率いるエル・ドリーム・チームの一員として数々のタイトルを獲得し、黄金期を築いていった。

在籍7シーズンで公式戦出場300試合以上, リーグ戦で63得点を記録。中でも1992-93シーズンはキャリア最高の15得点を挙げ、リーグ3連覇に貢献した。また、1991年のレアル・バジャドリード戦とその2年後のレアル・サラゴサ戦でハットトリックを達成した[4][5]

ラ・コルーニャ 

1995年、バルサでのベキリスタインの重要性が徐々に失われていた(それでも、最後の2シーズンで44試合13得点を記録したが)ことにより、かつての同僚ジョン・トシャック監督とロペス・レカルテの2人の誘いに応じデポルティーボ・ラ・コルーニャに加入した。その後、2-1で勝利したスーペルコパ・デ・エスパーニャ第2戦、サンティアゴ・ベルナベウでのレアル・マドリード相手に得点を決め優勝に貢献した。

デポルでの最後のシーズンはわずか出場10試合だったものの、最終節のCFエストレマドゥーラ戦で唯一の得点を決め、リーグ戦3位入賞に貢献した。

浦和レッズ

1997年、日本に渡りJ1浦和レッドダイヤモンズへ移籍。浦和での1998年にはJリーグで30試合9ゴールを記録した。また在籍中は福田正博の得点をよくアシストするなどの活躍を見せ[6]、ここで自身のキャリア通算出場試合数500/得点数100の大台を越え、1999年11月27日、J1リーグ・セカンドステージ最終節のサンフレッチェ広島戦を最後に現役引退した[6]

ディレクター職

引退後は、カタルーニャ州に本部を置くカタルーニャテレビに勤め、2003年からバルセロナのディレクターに就任し[7][8]、2010年6月29日にジェネラル・マネージャーのジョアン・オリベルから会長のジョアン・ラポルタの辞任とともに退任することが発表された[9]

2012年10月28日、イングランドプレミアリーグマンチェスター・シティにディレクターとして契約を結んだ[10][11]

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